アントニオ猪木の借金地獄 ~燃える闘魂 最大の敵はリング外に…

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故・力道山に見出されプロレスデビュー。故・ジャイアント馬場とのBI砲を経て、新日本プロレスを設立。初代タイガーマスク(佐山聡)、長州力、藤波辰爾、前田日明、高田延彦などの “弟子”たちを擁し、日本マット世界をリード。

さらには国会議員としてイラク人質問題にも尽力し、人質解放を実現。北朝鮮を舞台にプロレス大会も実現。アントニオ猪木というビッグネームは、まさに比類なき存在と言えます。

しかし、そうしたヒーロー性、カリスマ性とは裏腹に、猪木氏は人生の大半において借金という強敵とも常に戦っていたという事実があるのです。

本記事では、アントニオ猪木氏の借金について、彼の人生や功績、挫折や金銭スキャンダルといった事柄と交えながらご紹介していきたいと思います。燃える闘魂がリング外で繰り広げた借金との戦いとはどのようなものだったのか、ぜひご覧になってみてください。

アントニオ猪木の生い立ち。一家を挙げてのブラジル移民

アントニオ猪木氏(本名:猪木寛至)は1943年、横浜生まれになります。10人兄弟の9番目として生まれ、5歳の時に父上が死去。また一番上のお兄様も戦地で命を落としたため、ほとんど記憶がないとのこと。

お父上が存命中、猪木家は石炭商を営んでおり、かなり羽振りもよかったそうですが、戦後、まさに父上の死去とタイミングを合わせるかのように、日本のエネルギーは石炭から石油へと移行。猪木家もその時流に抗えず、家業は斜陽していくことになります。

そんな中、猪木家の三男、兄・寿一氏の主導により「狭い日本を捨て、新天地でひと旗揚げる」というブラジル移民の話が進んでおり、当時中学生だった猪木氏も、単純に冒険心や憧れを募らせていたとのこと。

過酷なブラジル移民時代に育まれた、忍耐力と生命力

希望を抱いて、フェリーと列車を乗り継ぎサンパウロ郊外の農園に到着した猪木一家。そこで待っていたのは、地獄のような、奴隷同然の日々でした。

渡航費や移民費用を盾に、朝5時から夕方5時まで、コーヒー豆を収穫する過酷な労働を1年半課せられたというもの。逃げ出した他の移民一家が、問答無用で射殺されるという、ある種の治外法権な環境だったそうです。

猪木少年は、この試練に必死に耐えることで、忍耐力と生命力を育んだとのこと。ちなみに、この経験によって、病気や怪我の治癒力もたかまったとされています。

やがて1年半の“奴隷”契約が解け、一家は自営の農業者に。落花生が大当たりとなり(その年ブラジル各地の落花生が不作だった)、一家は借金をすべて返済した上で、まとまった金額を手にできたとのこと。猪木氏の“最初”の借金は、こうしてクリアされたのだそうです。

力道山によるスカウト、プロレスラーへの道へ

晴れて大金を手にした猪木一家は、過酷な農業に見切りをつけ、サンパウロ市内へと移住。猪木氏も青果市場で働きながら、日本で中学時代にたしなんでいた陸上の砲丸投げ大会に出場していたところ、ちょうどブラジル遠征でサンパウロを訪れていた力道山からスカウトを受けることになります。

もともと、日本時代から力道山に憧れていた猪木少年。憧れと緊張の中で初対面した力道山から「おい、裸になれ」とひと言。身体の筋肉の付き具合を確認され「よし、日本へ行くぞ」の一言で日本プロレスへの入門が決まったのだそうです。猪木少年17歳の時のことでした。

力道山の付き人~力道山死去までの時代

日本に帰国し日本プロレスに入門した猪木氏。そこには大柄な猪木氏よりさらに身長差のある5歳年上の大男が待っていました。元読売巨人軍の投手でプロレスに転向した馬場正平青年・・・後のジャイアント馬場氏です。ほかにもマンモス鈴木、大木金太郎といった同期も。

プロレスに詳しい方ならご存知でしょうが、力道山は馬場には褒めて優しく、猪木は徹底的に厳しくという育て方を実践しました。馬場氏はデビュー戦からまもなく、早々にアメリカ武者修行のチャンスを与えられたのに対し、猪木氏はおよそ3年間、付き人生活。

ブロレスのしごきのみならず、力道山の理不尽な暴力などにも耐える日々。その試練に耐えられたのは、ブラジル時代の経験があったからとのこと。

ただし、力道山が暴漢に刺される日の昼、大相撲関係者との酒宴の席で、褒められたことは、今でも大きな悦びであるとのこと。また、このとことがなければ、後の北朝鮮行きはなかったとしています。そしてご存知の通り、力道山は刺されて入院し1週間後、容態の急変により死去。日本プロレス界は、混沌とした時代へと突入していきます。

先輩豊登のプッシュで、アメリカ修行が決定

力道山死後の混乱や紆余曲折を経て、アメリカ武者修行から帰国した馬場氏と入れ替わるように、猪木氏にアメリカ遠征のチャンスが与えられました。

これは力道山死後に短期間日本プロレスのトップとなった豊登(とよのぼり:元力士で力道山のタッグパートナーでもあった)の裁定によるもの。この豊登という人物は、泥酔した力道山から暴力を受け、逃げ出そうとした猪木氏を思いとどまるよう説得した先輩でもあります。

そう聞くと美談めいていますが、後にこの豊登は猪木氏に大きな借金を強いることになるのです。これについては後ほど。

たった1人でのアメリカ各地転戦と最初の「結婚」

晴れて与えられた海外修行のチャンス。レスラーとしての実力はもとより、観衆へのアピールのテクニック、さらにはマッチメイクやプロモーターの視点といったものを吸収していき、試合数も増え待遇も上がっていったとのこと。

しかしながら、異国の地にてたった一人でアメリカ各地を転戦する日々。孤独感を紛らわせるために博打を繰り返すように。増えていったギャラもつぎ込み、その日の食べ物に困ることもあったとか。

そんな中、猪木氏は最初の「結婚」をしています。この事実は長らく公表されていなかったため、あまり知られていませんが、ダイアナというアメリカ人女性と事実婚となり(籍は入れてなかったとのこと)、日本名「文子ちゃん」という長女ももうけています。

後に猪木氏が帰国した際、密かに母娘を来日させていましたが、慣れない日本での暮らしや、猪木氏が巡業および金銭問題で家に帰れない日々が続き、すれ違いからアメリカへと帰国してしまいます。

ほどなくして文子ちゃんは小児癌で死去してしまったとのこと。後述する「東京プロレス」とその借金問題の裏には、こんな悲劇が起きていたのです。

電撃移籍!日本プロレスから東京プロレスへ~太平洋上の略奪~

アメリカ修行開始から2年が経過し、いよいよ日本への凱旋・・・そんなタイミングの最中、猪木氏本人が与かり知らぬ所で、予想外の事態が進行していたのです。

前述した通り、力道山死後の日本プロレスは豊登(とよのぼり)が社長に就任していましたが、実はこの豊登は無類のギャンブル好きで、力道山存命時代から常に借金取りに追われていたというほど。日本プロレスも放漫経営となり、その責任を追求され解任。

そこで豊登は起死回生として、仲の良かった猪木氏をエースとして引き抜き新団体「東京プロレス」の設立を画策。帰国前に猪木氏をハワイに呼び出し説得。

決定打となったのは「このまま日本プロレスに戻っても、馬場の引き立て役になるだけ」との言葉だったとか。当時のマスコミはこの出来事を「太平洋上の略奪」と報じたそうです

東京プロレス社長への就任、そして借金人生のはじまり

新団体東京プロレスの設立にあたり、豊登は「これからはお前の時代だ」と猪木氏を社長に据えます。しかし、これもまた、ある種の詐欺行為でした。

豊登はこの時に抱えていた個人の借金(当時の金額で5千万円!)を、密かに会社名義にすり替えており、結果、猪木氏の借金となってしまうのです。

旗揚げとなった当時の蔵前国技館大会こそ盛況だったものの、たちまち立ち行かなくなり、僅か3ヶ月で東京プロレスは消滅の憂き目に。

猪木氏の著書によれば、この東京プロレスこそ、自身の借金苦の始まりであったとされています。

なお余談ながら、後に結婚する女優の倍賞美津子さんとは、この頃、皮肉にも豊登からの紹介で知り合ったそうです。

日本プロレスへの復帰、BI砲の全盛期へ

東京プロレス崩壊と5千万円の借金、八方塞がりとなった猪木氏ですが、当時のニッカンスポーツ新聞社社長が仲介役となってくれて日本プロレスに復帰。

意外にも、日本プロレスサイドも猪木氏の復帰を望んでいたとのこと。当時、既に新世代のスターとなっていたジャイアント馬場氏とともに2枚看板として売り出されることに。BI砲と命名された馬場・猪木コンビの活躍はめざましく、日本プロレスは力道山時代の活気を回復させていきます。

そうした活躍もあり、猪木氏は東京プロレスで背負った借金を自らのファイトマネーで返済。さらには東京・世田谷の上野毛に豪邸を購入し、かねてから交際を続けていた倍賞美津子さんとの結婚を決意します。そんな矢先、またしても大事件が・・・

倍賞美津子さんとの結婚直後、日本プロレスから追放

ことの発端は、日本プロレスの選手会が、相変わらずの放漫経営を続ける会社上層部への不満に端を発したクーデター計画でした。経理の透明化と一部首脳陣の退陣を求める全選手の連判状によって、組織の改革を目指し、猪木氏は馬場氏などとともに、水面下で動いていたのです。

ところがこの情報は、後に悪役レスラーとして名を馳せる上田馬之助の密告により発覚。首脳陣は主力選手の懐柔策に出て、馬場以下ほとんどの選手が手のひらを返したことで、猪木氏は孤立。会社乗っ取りを企てた首謀者として、永久追放となってしまうのです。

なお話が前後しますが、この追放事件の少し前、猪木氏は倍賞美津子さんとの“1億円”結婚式を、プロレスの宣伝も兼ねて実施。これは師匠力道山が死去の半年前に豪華絢爛な結婚式を挙げたことに倣ってのことだったとか。

その費用も、本来であれば日本プロレスが負担するはずだったそうですが、追放により猪木氏に課せられることとなったのです。なお1億円というのはマスコミ向けの数字で、実際にはそこまでかかっていなかったそうですが

新日本プロレスの立ち上げ、独自のストロングスタイルの確立

日本プロレス追放をうけ、猪木氏は自らの団体、新日本プロレスを立ち上げます。この時、猪木氏に追従したのは、山本小鉄、藤波辰爾ら数名のみ。新婚家庭となるはずだった世田谷の自宅は、道場へと改築されました。

前述の結婚式の借金もあり、連日スポンサー回りを繰り返し、資金をあつめ、ようやく団体として旗揚げ戦を迎えられたとのこと。

実はこの頃、ジャイアント馬場氏も密かに独立を企てており、その後ろ盾となっていたのは日本テレビ。ほどなく全日本プロレスが立ち上がります。馬場と猪木の2枚看板に去られた日本プロレスは、ほどなく崩壊するのですから、運命は分からないものですね。

一方、新日本プロレスには元柔道全日本王者で俳優坂口憲二氏の父上としても知られる坂口征二氏が合流し、NET(現在のテレビ朝日)の放映も決定。ショー的要素より真剣勝負色を重視したストロングスタイルを打ち出し、人気を高めていくことになるのです。そうした最中、猪木氏はかの大試合に望んでいくことになります。

モハメッド・アリとの戦いで、得たもの、失ったもの

当時のボクシング世界王者、モハメッド・アリとの異種格闘技戦。この試合は当時のメディアから「世紀の凡戦」「大茶番」と酷評されることになります。

裏事情を明かせば、これはアリサイドから、ほぼすべてのプロレス技を禁じたルールをゴリ押しされ、猪木氏もその条件を飲んだため。グランドに寝そべった状態でのキック以外、猪木氏には攻撃のやりようがなかったというものです。

しかも、アリがこの試合で要求したのは日本円で約18億円。入場料や放映権料などを差し引いても、9億円の借金を抱えることになりました。この試合後、猪木人気は一時的に低迷することとなり、ふんだりけったりとなるのです。

しかし、猪木氏にとっては、あのモハメッド・アリと戦ったという事実が大切だったとのこと。実際、この試合後、世界の格闘技界からの挑戦が相次ぎ、これらの異種格闘技戦は以降の人気回復に大きく寄与。また後年の総合格闘技の礎となるのです。

なかでもパキスタンの英雄アクラム・ペールワンに現地で快勝したことで、イスラム圏での知名度と名声を高め、このことが後のイラク人質解放にも大きく寄与することになります。

また、アリとの親交もその後続き、後の北朝鮮での試合においてもモハメッド・アリが立会人として参加というビッグサプライズをもたらすことになります。塞翁が馬とはよくいったものですね。

猪木氏最大の金銭スキャンダル、アントンハイセル問題

初代タイガーマスクや、藤波辰爾と長州力の戦いなど、人気絶頂を迎えていた新日本プロレスに、一大危機が訪れます。いわゆるアントンハイセル問題です。

アントンハイセルという会社は、猪木氏がブラジルで起こした事業です。現代で言うところのバイオビジネスで、平たく言えば、サトウキビの搾りかすに含まれる有害物質を除去することで、飼料に有効活用するというプロジェクトでした。

想い入れのあるブラジルの農業に貢献するため事業でしたが、時代が早すぎたのでしょう。当時のバイオテクノロジーでは結局成功することはできませんでした。

そして最大の問題となったのは、猪木氏が新日本プロレスの売上を、アントンハイセルにつぎ込み続けていたのです。その総額は推定20億円とも。

この状況に不安や不満を抱いたレスラーも多く、まず人気絶頂だった初代タイガーマスクが突然の引退表明。続いて、新日本生え抜きの山本小鉄・藤波辰爾らによるクーデターが勃発。

猪木氏は社長を解任。長州力らはジャパンプロレスを立ち上げ全日本プロレスと提携。前田日明、高田延彦らはUWFへと流出。この問題により、猪木氏はまたも莫大な借金を背負うことになりました。

なお同じ時期、猪木氏は当時珍しかったスペアリブ専門店や、マテ茶・タバスコなどの輸入販売業も手がけていましたが、これらも債務整理で手放すことになりました。

新日本の迷走を経て、国会議員への出馬

アントンハイセル問題以後、猪木氏は3ヶ月で社長に復帰。これはテレビ朝日の意向だったとのこと。戻ってきたアントニオ猪木は、それ以降、借金返済のためのリングに上がり続けますが、精神的な気苦労ゆえか、全盛期の輝きは失われつつありました。

またマッチメイクやアングルにも、海賊男など不可解なギミックを乱発。新日本プロレス両国国技館大会では、怒ったファンが暴動を起こすといったことも。新日本に復帰した前田日明による長州力顔面骨折事件などもあり、新日本プロレス自体が迷走を極めます。また、私生活でも、女優の倍賞美津子さんと離婚。ご本人曰く、魔が差した浮気が原因とのこと。

そうした混乱の中から、橋本・蝶野・武藤の闘魂三銃士や獣神サンダーライガーといった次世代が台頭したこともあり、猪木氏はプロレスの一線から離れ、国会へと挑戦の場を移していきます。

国会議員への出馬と、知名度を活かした一人外交

参議院議員当選後、猪木氏は持ち前の行動力や知名度を活かし、精力的に一人外交を展開。外務省からの妨害や圧力もはらいのけ、各国の首脳とのコンタクトに勤しみます。

なかでもキューバのカストロ議長と個人的に親しくなったり、崩壊寸前のソ連でのプロレス初お披露目、ソ連選手の日本プロレスデビューなどをお膳立てしています。

そして議員生活2年目、イラクが突如としてクエートに侵攻したのです。

個人での在留邦人救出活動、解放実現の理由とは・・・

いわゆる湾岸危機から湾岸戦争に至るまでの期間、現地に滞在していた邦人は軟禁状態となり事実上人質となっていました。

当時の政府・外務省は、アメリカに同調しており、独自の人質返還交渉などは行なっていません。それに業を煮やした猪木氏は、人質親族からの懇願もあり、自ら現地へと向かいます。外務省からの圧力により日本の航空会社の協力が得られず自費でトルコ航空機をチャーターしてのこと。

そこでものを言ったのが、モハメッド・アリと戦い、アクラム・ペールワンに勝った男であるという経歴。猪木氏はイスラム圏での知名度を活かし、フセインの側近と直接交渉。サッカーや音楽、そして空手試合などで構成された「平和の祭典」を実現させた上で、人質解放を実現させたのです。しかし、この費用もまた、個人の借金となっていくのでした。

盟友の裏切りと、北朝鮮でのプロレス実現への奔走

アントニオ猪木に多少なりとも詳しい方なら、新間寿という名前をご存知でしょう。かつて新日本プロレスの裏方として活躍するも、ハイセル問題で失脚。猪木氏の議員当選後に側近として復活したという人物です。

そして猪木氏の公設秘書を務めていたのが、この新間の愛人でもあった佐藤久美子(フィギュアスケートのコーチとは別人)。この2人が不正経理を働いたことが発覚し、猪木氏は両名を更迭。

すると、逆恨みから、この2人はメディアを利用し、猪木バッシングを展開。あることないことをでっち上げ、メディアも数字や売上ほしさに追随したとのこと。このことが響いたせいか、猪木氏は2期目の選挙に落選することになります。

しかし、猪木氏はそんなことにかまっている暇はありませんでした。北朝鮮での歴史的な試合実現のために奔走していたのです。

きっかけは平成6年の核査察問題。北朝鮮問題に関して、自分に何かできないかと考えた時、師匠・力道山の故郷である彼の地で、プロレスを通じて世界平和を訴えるということに行き着いたのです。

北朝鮮でプロレス、相手はリック・フレアー、立会人はモハメッド・アリ

猪木氏の申し出に驚いたのは、北朝鮮側だったとのこと。特にモハメッド・アリを連れてきたことに対しては、そんなことまで出来るとはと驚かれたとか。

試合は平壌のスタジアムにて19万人の観衆を集め、テレビ視聴率は97%を記録。元NWA王者だったリック・フレアーとの熱戦により、アントニオ猪木の名前は、北朝鮮中に知れ渡ったとのこと。スポーツ界の他の誰にも真似できないことでしょう。

ただし、この北朝鮮での試合において、猪木氏には、またしても2億円の借金が課せられたそうです。

猪木氏の金銭苦を救った、人物、それは・・・

以上の通り、猪木氏はその人生の大半において、莫大な借金を背負いました。本業のプロレス興行での収入による返済も地道に行なってはいましたが、巨額の借金、とりわけハイセル問題を引き受けてくれたのは・・・

旧佐川急便の創業者であった、故・佐川清氏であったことが、猪木氏の著書で明かされています。アントンハイセルは猪木氏の親族に譲渡され、その肥料の会社として再建されたとのこと。

また猪木氏個人に課せられていた借金も、引退試合のファイトマネーや人日本プロレス株主としての配当金、そして新日本プロレスの退職金や新日本プロレスの株式売却で完済したとされています。

猪木氏の、比類なき人生とは・・・

猪木氏の人生は、苦労と栄光が表裏一体。一般人でも、よいこともあれば悪いこともあるというのが通説ですが、猪木氏ほどの波乱万丈さを体験した方は、そうはいないでしょう。

近年においても、参議院議員への再当選や、格闘技団体の運営などに精力的に活動。また大きな借金をどこかで背負ったとしても、この人なら返してしまうのではないかと思えてしまいます。猪木氏からは今後も、目が離せそうにありませんね。

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