加山雄三の借金地獄 ~ホテルとスキー場倒産、若大将の金銭苦難

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映画『若大将シリーズ』や名曲『君といつまでも』、そして数々のドラマや音楽番組、時にはバラエティタレントとしても大活躍。また海の男としても、スキーの名手としても知られ、私生活では元女優の奥様との間に息子さん2人に娘さんも2人。

まさに多くの男性にとって、理想と憧れを実現している加山雄三氏。70歳を過ぎてなお、「永遠の若大将」というキャッチフレーズが、これほどピッタリはまっている方もいないでしょう。

しかし、そんな加山氏の人生は、決して順風満帆だった訳ではありませんでした。とりわけ有名なエピソードとしては、「パシフィックホテル茅ヶ崎」の倒産。ならびに「加山キャプテンコーストスキー場」の閉鎖が挙げられます。

本記では、これらの借金について、加山氏の人生やエピソードなども交えながらご紹介していきたいと思います。若大将が背負った苦難とはどのようなものだったのか、それをどのように克服していったのか、ぜひご覧になってみてください。

父は俳優上原謙、母は岩倉具視の子孫で女優の小桜葉子

加山雄三氏(本名:池端直亮)は1937年、東京生まれ。父上は戦前戦後の日本映画界において、天下の二枚目と称された故・上原 謙氏。母上は、明治の元勲・岩倉具視を曾祖父にもち、女優であり、さらには日本における美容体操(現在のうエアロビクス)の草分けとしても知られた、故・小桜葉子氏になります。

ちなみに、後に大きな借金をもたらすパシフィックホテル茅ヶ崎は、母小桜葉子氏の弟、加山氏の叔父にあたる岩倉具憲氏が経営していたものになります。これについては、後ほど詳しく。

病弱だった幼年期、いじめに苛まれた少年期

両親がともに大物芸能人で家庭も裕福、そう聞くと、一般人としてはつい羨ましさが先立ってしまいますが、加山氏の子供の頃は決して明るい時代ではなかったとのこと。

生後まもない頃、加山氏は病弱だったこともあり、一家は横浜から東京をへて、自然の残る神奈川県の茅ヶ崎へと引越しします。加山氏と言えば湘南というイメージが強いですが、その根本は幼少期の病弱のせいであったとは、意外な事実ですね。

やがて小学校に入学すると、今度は、両親が有名人で裕福な家庭ということを理由に、いじめに苛まれたとのこと。

しかし、一人孤独な放課後を、音楽や絵、さらには船に関する独学などで過ごすようになり、これらが後の加山雄三の原型となっていったのですから、人生は分からないものですね。

ちなみに、14歳の時に自己流でピアノ作曲したのが、後の代表曲のひとつ『夜空の星』の原型だったのだそうです。

またカヌーを手作りで仕上げ、湘南のシンボルでもある烏帽子岩まで繰り出すといったことまでやっていたとのこと。まさに後の若大将シリーズを彷彿とさせますね。

猛勉強の末に慶応高校に入学、スキーとギターへの本格開眼

やがて高校受験の時期を迎えます。地元の学校での辛い体験があったために、高校は名門の慶応高校を志望。中学3年の夏休みには1日12時間という猛勉強を行い見事合格。

晴れて入学すると、そこには気の合う仲間との出会いがあり、スキー同好会を結成。もともと上原謙一家はスキーに親しんでいたそうですが、本格的な競技スキーを開始したのは慶応高校時代とのこと。めきめきと上達を果たし、大学時代には2年連続で国体出場も果たしたのだそうです。

しかし、このスキーもまた、後の加山氏の大きな苦難に密接に関わることになろうとは、この時点では誰も知るよしもなかったことでしょう。これについても、後ほど詳しく。

そしてもうひとつ、高校時代に開眼したのがギター。ピアノは年少期から親しんでいたものの、ギターを本格的に開始したのは高校時代のスキー仲間に影響されてとのこと。ほどなくバンドを結成し、音楽という趣味もより拡大していきます。この点に関しては、ある意味、想像通りといったところでしょうか。

父上原謙氏の猛反対を押し切り、映画の世界へ

やがて大学卒業の時期を迎えた加山氏。当初は芸能界に進む気はなく、一般企業への就職を目指していたそうです。しかし、音楽やスポーツといった才能を目の当たりにした友人達から、芸能界に進むべきとの進言を受け、本人も段々とその気になっていったとのこと。

そして決定打のとなったのは、いつか船を設計・建造したいという夢を持っていた加山氏に対して友人が放った「俳優になって稼いで、自分の船を造ればいいじゃないか」というひと言。ちなみにこの夢は、一般人にも広く知られる加山氏ご自慢の「光進丸」として、後に実現します。

母である小桜葉子氏は賛成したものの、である上原謙氏は猛反対。曰く「こんなにプライバシーのない商売はない」と自らの体験を語ったそうです。実はそれまでにも、息子の加山氏を俳優にという話しは何度もあったそうですが、上原氏がすべて断っていたのだとか。

それでも連日説得を続ける加山氏に、ついに上原謙氏も折れ、俳優業を認められたとのこと。ただし、いわゆる親の七光りを嫌って上原氏が看板を務めていた松竹ではなく、東宝を選んだとの旨が語られています。

1960年、池端直亮青年は、俳優加山雄三としての道を歩み始めます。

『若大将シリーズ』の大ヒット、栄光の60年代を疾走

東宝と専属契約を結び、俳優としてのキャリアをスタート。加山雄三という芸名は、やはり女優として活躍した母方の祖母である江間光子氏によって名付けられたとのこと。

デビュー作は端役でお試し出演だったものの、2作目では名匠の映画監督として名高い岡本喜八氏の「独立愚連隊西へ」に準主役として抜擢。その後も何作かの出演を経て、デビュー2年目の1961年、加山氏の代名詞となる『若大将シリーズ』が始まります。

1961年公開の『大学の若大将』を皮切りに、毎年、時には年2本というペースで製作。実に全18本のシリーズとして続いていくことになります。まさに、加山氏にとって、栄光の60年代と言えるでしょう。そして奇しくも、1970年という節目に、加山氏の生活は一変することになるのですが、この時は誰も知る由もなかったことでしょう。

シンガーソングライターの先駆者としての加山雄三

そして加山氏に関してもうひとつ外せない話題と言えば、『エレキの若大将』の主題歌『君といつまでも』を筆頭とするヒットナンバーの数々。加山氏は自身で曲づくりを行い、自ら歌唱するシンガーソングライターの草分けでもあります。

当時の音楽業界は、各レコード会社に作曲家・作詞家が所属しており、その門下生や弟子となることが、レコードデビューするための方法でした。その慣習を打ち破り、自ら作曲した曲を自ら歌唱するという当時としては画期的なスタイルを打ち出したのです(日本初という説も)。ちなみに作曲者としては、弾厚作名義を使用しています。

このスタイルはやがて、1970年代のフォークシンガー達にも受け継がれていくのですが、その時期、先駆者たる加山氏が、金銭問題で音楽から一時離れてしまうことになるとは、なんとも皮肉な運命です。

さて、前置きがやや長くなりましたが、いよいよ加山氏の借金について、詳しく掘り下げていきましょう。

1970年、母上の死去で始まる加山氏の暗黒時代

加山氏の著者などによれば、この1970年という年は、“激動の70年” と表現されています。その内容は、まさに、不運の連鎖とも言えるもの。

その皮切りとなったのは、同年5月、母上である小桜葉子氏の死去。美容体操のパイオニアでもあり、加山氏にも負けないくらいのスキー上級者で健康のそのものに見えた小桜氏ですが、実はガンに犯されていたとのこと。52歳という若さで、天国へと旅立ちました。

この出来事は、加山氏に大きな精神的ダメージをもたらしましたが、その心の傷が癒えないままに、次なる困難が襲ってきます。

加山氏の大借金、その1:パシフィックホテル茅ヶ崎の倒産

同年8月、新聞や週刊誌などには「上原謙、加山雄三親子の会社が倒産」といった見出しが踊ったそうです。加山氏の“最初の”借金となる、パシフィックホテル茅ヶ崎の倒産です。

ことの始まりである1965年まで時間を戻しましょう。本記事冒頭でも述べました通り、同ホテルは母上の小桜葉子氏の弟、加山氏の叔父にあたる岩倉具憲氏が社長を務める会社が開業したものになります。

その際、父・上原謙氏は専務、加山氏も監査役として名を連ねていましたが、実際には名義上だけのもので、経営には一切関わっていなかったとのこと。

岩倉具憲氏は、それ以前、新潟のスキー場ロッジを経営しており、当時の小説家や漫画家、芸能人、プロ野球選手などにも愛好されていたのだとか。この成功に気をよくして、山の次は海と目論んだものの、そう甘くはなかったとのこと。

ちなみに、負債総額は23億円という数字が誇張されていますが、実際には、加山氏個人に課せられたのは2億800万円(それでもすごい金額ですが)。

なお、ホテルはその後、かの買収王で、ホテルニュージャパン火災事件で有名となる横井英樹氏に17億円で売却。休業・再開を繰り返したのちに廃業。跡地には高級マンションが建設され、現在その面影はありません。

もうひとつ余談ながら、サザンオールスターズが2000年夏にリリースした『HOTEL PACIFIC』は、同じ茅ヶ崎出身である桑田佳祐氏が、同ホテルへの想いを曲にしたとされています。

加山氏のアメリカへの“逃亡”と“結婚事件”

そうした騒動の中、加山氏は密かにアメリカに渡っていました。周囲のスタッフ陣などから「大変な騒ぎになるから、しばらく日本を離れていた方がいい」と勧められたとのこと。

ほとぼりを冷ますという意味でのアメリカ行きでしたが、加山氏の場合、それが火に油を注ぐ結果になりました。なんと、そんな最中に、結婚を決意してしまったからです。お相手は『エレキの若大将』などで共演していた女優の松本めぐみ氏。

会社が倒産したのに雲隠れした挙句、結婚発表というのは非常識すぎると、マスコミから集中砲火を浴びることになります。当時の週刊誌などは“加山雄三結婚事件”と報じたのだとか。

加山雄三と松本めぐみ、苦しい生活を承知で結婚に踏み切った理由とは

端から見れば、大きな借金を抱えたのに結婚を決断するというのは、無謀で愚かなことに思えます。しかし、このお二人は、そんな状況だからこそ、新しい家族を互に求めたと語っています。

先にも述べた通り、加山氏は母上を亡くしていますが、実は松本氏も父上を亡くしていたとのこと。そして加山氏の困難を助けられるのは自分しかいないという決意の元、結婚を決断したとしています。事実、松本氏は結婚後、女優業をきっぱりと辞め、家庭に専念することになります。

仕事激減の極貧の中で始まった新婚生活

晴れて夫婦となったお二人ですが、それまで暮らしていた茅ヶ崎の上原謙氏の豪邸は差し押さえられ競売に(後に買い戻したそうです)。

松本氏の実家にしばし間借りした後、加山氏のファンであった大家さんの好意で、格安家賃で提供してもらった借家に身を寄せることになります。

奇しくも時をほぼ同じくして若大将シリーズは打ち切り。仕事の激減という事態に見舞われます。

とりわけ、それまで大きく貢献してきた東宝首脳陣からも、けんもほろろの対応をされるようになったのは、相当堪えたと後に語っています。

ただしこれには裏話があります。東宝首脳陣の面々は加山氏夫妻の苦境を見かね、当初まとまった金額の援助を行うよう、あるスタッフに指示していたのだそうですが、このスタッフがそのお金を黙って着服していたとのこと。

当然加山氏はそんな事情を知らず、首脳陣サイドは礼ひとつ言わないと態度を硬化させたというのが真相。後に真相が明らかになったそうですが、泣きっ面に蜂とはこのことですね。

徹底した節約と、ドサ回りも厭わないガムシャラさ

仕事を選べる立場でなくなったこともあり、加山氏は来るものすべてを引き受けていたとのこと。なかにはキャバレーのドサ回りもあり、かつての大スターには似つかわしくない仕事もこなしていったとのこと。

また、着るものはどんなシーンに対応できる既製品の背広。食事はすべて自宅での自炊。返済日は必ず守るといったルールを徹底したそうです。実際、返済日でお金がなくなり、卵一個を夫婦で分け合ったこともあったのだとか。

そうした姿勢もあり、徐々に仕事が回復してきたとのこと。折しも、娯楽のメインが映画からテレビに移行しつつあった時代、テレビドラマからのオファーも増え、また私生活ではご長男も誕生。多少なりとも生活にゆとりが生まれた矢先、またもや大事件に見舞われます。

「加山雄三、再起不能の危機!」とまで報じられた大怪我

前述の通り多少生活にゆとりが生まれ、それまで苦労をかけっぱなしだった奥様の労をねぎらうため、1974年の正月旅行で訪れた北海道のスキー場。そこで加山氏は、圧雪車に轢かれるという大事故に巻き込まれます。数センチずれていたら即死というものだったとのこと。

これにより長期入院を余儀なくされ、ドラマも降板。せっかく仕事が上向いてきた時期だけに、大きな焦りが募り、また身体を襲う激痛にも必死に耐えなければならない日々。週刊誌などでは「加山雄三、再起不能の危機!」といった報道がされたそうです。しかし、この事故の後、事態は好転していくことになるのです。

「若大将」リバイバルブームの追い風と、新作アルバムのヒット

借金と大怪我という二重苦に苛まれながらも、地道にドラマなどの仕事をこなしていった加山氏。そうした中で、75年後半から76年にかけ、「若大将」シリーズのリバイバルブームが沸き起こります。

これは当時のオールナイト映画上映にて火がついたとのこと。リアルタイムで見た世代の下の世代が改めて見てハマっていったのだとか。

こうした追い風もあり、ドラマの仕事も増えていったとのこと。音楽の面でもアルバムがヒット。『海 その愛』『ぼくの妹に』というヒットシングルも生まれ、久しく開催していなかったコンサートも大盛況。後にご本人は「まさに慈雨のようだった」と語っています。

そしてパシフィックホテル倒産からおよそ10年。加山氏個人に課せられていた借金は完済。差押えられていたご自慢の光進丸も、晴れて「赤紙」が剥がされたそうです。

借金完済は、お子さん達のおかげ?!

借金からの電撃結婚“事件”と苦難の時期、私生活においてはご長男、次男、長女、次女の4人のお子さんが誕生。それもまた、諦めずに頑張るモチベーションになったと語っています。

そんな中、摩訶不思議だったのは、次男で現在俳優として活動している山下徹大氏が誕生する時のこと。とある知人から、「今度生まれてくるお子さんは、金運を運んでくる」と予言のような占いのようなことを言われたのだそうです。

前述の通り、若大将シリーズのリバイバルブームは75年後半、そして徹大氏は75年生まれ・・・世の中には、まだまだ科学では解明できないことがあるのですね。

ちなみに長男である池端信宏氏は映像作家として活躍しており、花火師さんとのコラボにより花火大会をプロデュースするなどの活躍。

長女の梓真悠子氏はタレントと経て料理研究家へと転身。次女の池端えみ氏も女優の傍ら、ニューヨーク在住。母松本めぐみ氏は、1年の内半分ほどをえみ氏とニューヨークで過ごしているとか。

ちなみに、このことを一部週刊誌などでは別居と報じられたそうですが、ご本人達は「卒婚」──結婚という形を持続しながら、それぞれが自由に自分の人生を楽しむライフスタイルと表現しています。また、グリーンカード(米国永住権)を維持するためにそうしているとのことです。

ホテルの借金完済からおよそ10年、スキー場経営を決断した理由とは?

さて、話しを加山氏に戻しまして、ここからは、2度目の大きな借金となる「加山キャプテンコーストスキー場」について見ていきましょう。

そもそもの話しとして、ホテル倒産による借金で大変な苦労をしたのに、なぜ再び借金のリスクのあるスキー場経営をしようとしたのか・・・その理由を、加山氏は次のように語っています。

ホテル倒産の借金に苦しんでいる最中は、事業はこりごりと感じていたそうですが、前述の通り借金を完済し、仕事も再び上手くいくようになっていったことで、逆に上手くいきすぎている人生に不安を感じるようになったとのこと。

折しも時はバブル全盛期。周囲は当然ながら猛反対したそうですが、海と並んで親しんでいたスキーへの情熱と、幼少期から縁のあった新潟県湯沢町への恩返しという意味を込めて、計画を推進。1990年末に、「加山キャプテンコーストスキー場」は営業開始となりました。しかし・・・

スキー場オープンとほぼ同じくして、バブル崩壊

ご存じの通り、1990年と言えば、いわゆるバブル崩壊のタイミング。資金計画も大幅に狂い、金利も嵩んでいったとのこと。

しかし、この事態は不幸中の幸いな部分もあったのだとか。当初はスキー場そのものに加え、800室のホテルとリゾートマンションなどを建設する計画があったのだそうですが、着工前にバブルが崩壊したため、傷口が広がらずに済んだとも。

またそうであったからこそ、「加山キャプテンコーストスキー場」は日帰りスキー場として、オープンから20年は営業できたのだとも。バブル崩壊のタイミングがもう少し後だったら、もっと早くに閉鎖を余儀なくされていたはずとのことです。

ちなみに、ゲレンデ数は7本でリフトは4本。400m最大斜度32度の上級者向けコースは1本のみで、あとは平均斜度が10度~20度程度の初級・中級者向けがメイン。また、夏の期間は、「湯沢フィールド音楽祭」と題して、野外コンサートイベントも開催されていました。

スキー場閉鎖に至るまでと、その後の借金返済は?

1990年のオープン以来、加山氏の夢と情熱もあって営業を続けてきた同スキー場ですが、2011年の東日本大震災を機としてスキー場閉鎖を決断。

実は一度も黒字になったことはなく、20年間の間、加山氏が本業で稼いだ資金を投入することでどうにか維持されていたのだそうです。その総額は数十億円とも。

しかし、そうした借金についても、2012年5月に放送開始され人気番組となった『若大将のゆうゆう散歩』出演や、コンサートツアー、ディナーショー、CD選書発売などを精力的にこなすことで、ほぼ返済し終えているとのこと。あらためて一流芸能人の稼ぎは、一般人の想像を超越していますね。

スキー場経営で苦労している中で果たした、妻との約束

そうした中の2009年、加山氏は奥様とかつて交わした約束を果たしました。それは、結婚直後のホテル借金で苦しい最中に「将来お金にゆとりができたら、タヒチのボラボラ島に連れて行く」というもの。

奥様も「覚えていてくれたの」と感動しきりだったとのこと。スキー場の借金に直面しながらも、それを実現させてしまうのは、さすがといったところですね。

結論:借金は加山雄三の、生きるモチベーションだった

近年、加山氏は、「人間は借金して苦労すると責任感が強くなり、試練だと思って乗り越えようとすることで、パワフルに、エネルギッシュに生きることができる。借金から逃げたらダメ!」とインタビューに答えています。

また、音楽面においても、新たな音楽グループの結成やフェスへの出演を計画。その他、さらなる絵画の製作と個展開催、新たな船の設計と、やりたいことはまだまだあると宣言

70歳をとうに過ぎているのに、その活力たるや、まさに永遠の若大将といったところでしょうか。凡人にはとうてい真似できそうにありませんが、借金から逃げないという心意気は、見習いたいところですね。

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