小林旭の借金地獄 ~ゴルフ場開発などで大負債、その度に復活する強運

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かつては日活の看板俳優として、マイトガイの愛称で知られ、かの故・石原裕次郎氏と並ぶ大スターとして活躍。昭和歌謡界の女王、故・美空ひばりさんとの結婚と離婚。そして「アキラ節」と称される独特な味わいの歌唱スタイルで披露される『昔の名前で出ています』、『北帰行』、『熱き心に』といったヒット曲の数々。

小林旭という人は、まさに昭和の、古き良き時代の映画スターとしての生き字引と言え、70歳を過ぎた今なお、若々しさを失わず、精力的に芸能活動に勤しんでいます。

ただし、その人生においては巨額の借金に度々直面。それにも関わらず、自らの芸能活動の稼ぎによって返済したというスゴ技を発揮したことでも知られています。

本記事では、そんな小林旭氏の生い立ちから、映画デビュー、結婚と離婚、そして再婚、さらには負債内容について詳しく掘り下げてご紹介していきたいと思います。ぜひご覧になってみてください。

映画俳優の下地は、幼少期に見た映画『ターザン』

小林旭氏(本名同じ)は1938年、東京・世田谷出身になります。生家の近くには、東京23区内唯一の渓谷として知られる等々力渓谷があり、幼少期はもっぱらターザンごっこに興じていたとのこと。これはジョニー・ワイズミュラー主演の一連のターザン映画シリーズに感化されたとしており、後に活躍するアクション映画の源になったと語られています。

一方、この頃から極度の負けず嫌い、孤高な性格であり、喧嘩早い気性もあって、同世代の仲間から孤立してしまうこともしばしば。それゆえ、父上が映画の技師だったつてによって、児童劇団で子役を行い、また大人に混じって町の柔道場と空手道場に通うようにもなったとのこと。後述する強靭な肉体は、この頃より鍛えられたそうです。

もうひとつ、俳優への動機となったのが車への憧れだったとのこと。折しも、戦後のモータリゼーションが活発になる時期。高校時代、母校の校長先生が乗っていたブルーのオペル(ドイツ車)に憧れたというのがひとつ。

加えて、実家近くの等々力渓谷に、高級車に乗ってロケにやってくる当時の映画スターへの憧憬もあったのだとか。

東映オーディション落選をへて、日活ニューフェイスに合格

俳優業を志すにあたり、映画の技師をしていた父上が懇意にしていた東映関係者の口利きで東映のオーディションを受けたものの落選。ちなみに、このオーディションを勝ち残った人物こそ・・・誰あろう、故・高倉健氏であったのだそうです。

気を取り直して翌年、日活の第3期ニューフェイスに挑み、見事合格。しかし、当時はまだ、前時代の風習が色濃く残っていた映画業界。スター候補生とはいえ、ベテラン大部屋俳優やスッタッフ陣への絶対服従を強いられ、勝気で負けん気の強い小林氏は、いじめの標的になることもしょっちゅうだったとか。

そんな状況で、ものを言ったのが、柔道と空手で鍛えた強靭な肉体。ある日、カメラテストの際に、木製バットで小林氏の腹部を殴打するというシーンで、小林氏は相手の俳優に思い切り打ち込めと挑発。フルスイングで叩きこまれたバットの方が折れたとのこと。これ以来、表立って小林氏を攻撃する者はいなくなったのだそうです。

そして間もなく、日活には後に昭和を代表する大スターとなる同年代の若者がやって来ます。

石原裕次郎との、日活2枚看板の黄金時代

1956年、前述の通り、スター候補生ではありながら大部屋俳優との軋轢に苛まれながらも、小林氏がスクリーンデビューを果たしたこの年、かの石原裕次郎氏が鳴り物入りで日活にやってきます。

裕次郎氏の兄であり、芥川賞作家である石原慎太郎氏原作の『太陽の季節』の映画化にあたり、慎太郎氏と元宝塚女優からプロデューサーに転身していた故・水の江瀧子さんの強力なプッシュにより、まさに彗星のごとく現れたとのこと。

またたく間にスター街道を駆け上がる裕次郎氏に対し、小林も1959年の『南国土佐を後にして』が出世作となり、以後、小林氏の代名詞ともなる「渡り鳥」シリーズや「旋風児」シリーズに出演。日活黄金期を支える2枚看板となります。

そんなお二人の共演は意外にも少なく『錆びたナイフ』と他もう一本。これは、裕次郎氏はクールさ、小林氏はワイルドさという棲み分けがなされていたためだとか。

ただし、ブライベートでは仲がよく、またお互い大の車好きであったことから、撮影終わりにそのまま京都までドライブといったことも行なっていたそうです。

こうした関係は裕次郎氏が石原プロを立ち上げ独立する、1963年頃まで続いたとのこと。それとほぼ同時期、小林旭氏は、私生活において、大きな局面を迎えることになります。

昭和の歌姫、美空ひばりさんとの出会い

小林旭という人物を語る上で避けて通れないのは、やはり天下の歌姫、故・美空ひばりさんとの結婚と離婚という話題につきるでしょう。

実は、小林氏が児童劇団で子役をしていた12歳の頃、当時既に天才少女として注目されていたひばりさんとはNHKの廊下ですれ違ったことがあり「自分とは住む世界の違う人だ」と感じたというエピソードが語られています。

それから時が経ち、2人が「再会」するきっかけとなったのは、芸能誌の対談企画だったとのこと。たちまち意気投合し、むしろ熱を上げていったのは、実はひばりさんの方だったとか。

以来、小林氏は撮影終わりに銀座や六本木などで飲んでいると、ひばりさんの周囲の人間から「お嬢が寂しがっているので、来てください」との呼び出しが頻繁に入るようになったとのこと。

ある時など、四谷の料亭に呼び出されて行ってみると、水原弘、三橋美智也といった当時の人気スターの面々が顔を揃えており、その面前で「私のダーリンはこの人」と紹介されたとか。後年語ったところによれば「外堀をどんどん埋められていった状態」だったとのこと。

山口組三代目、故・田岡一雄組長からの「要請」により、退路は寸断

現代においてはすっかりタブー視されているものの、当時の芸能界においては「黒い交際」はむしろ当たり前という時代でした。とりわけ、美空ひばりさんご自身が田岡組長率いる神戸芸能社に所属しており、田岡組長が父親代わりであったことは、よく知られています。

前述の通り、小林旭氏への想いを募らせていったひばりさん。その意を汲み、田岡組長は動きました。小林旭氏の自宅に黒塗りの車でボディーガードとともに乗り付け、婚約を迫ったとのこと。口調は穏やかで、時には笑も浮かべていたそうですが、それが逆に怖かったと回想しています。

かくして、1962年5月、小林旭と美空ひばりは正式に婚約発表。同年11月、「世紀の大披露宴」が執り行われました。しかし、後年小林氏が語ったところによれば、2人が一緒に暮らしたのは、実質8ヶ月程度に過ぎなかったのだそうです。

大スター同士の結婚、その新婚生活とは・・・

結婚当初、小林氏は「俺が結婚したのは美空ひばりではなく、加藤和枝(ひばりさんの本名)だ」と繰り返し発言していたそうです。つまりは、公私の区別ははっきりつけて欲しいとの願いがあったとのこと。

ひばりさんも、新婚当初は、その想いに応えるべく、よき妻であろうと、家事などにも勤しんでいたそうです。しかし、そこは天下の歌姫。ほどなくして、周囲の人間が家庭にも浸食してくるようになったとのこと。

とりわけ、いわゆるステージママとして幼少期からひばりさんにつきっきりだったひばりさんの母・加藤喜美枝氏とは、深刻な対立関係に陥ったとのこと。

やがて、ある日、ひばりさんは突然、帰ってこなくなり、実質8ヶ月で同居生活は終了してしまったとのことです。

「協議離婚」ではなく「理解離婚」、流行語にまでなった記者会見での言葉

やがて結婚の時と全く同じように、田岡組長が小林氏を訪問。「ひばりを世間の皆様に返してやれ」との言葉とともに、離婚会見に望むこととなったそうです。時に1964年6月のこと。

この会見にて記者から「協議離婚ですか?」と質問され、「そもそも協議をしていない。理解離婚だ」と答え話題となりました。また、いわゆるゴシップ系の雑誌や新聞、テレビなどが、こぞって小林氏のバッシングを開始。いつの時代でも、こうしたことは変わらないのですね。

ちなみに後に小林氏が青山京子さんと再婚する際、ひばりさんとは籍が入っておらず、いわゆる事実婚状態だったことが判明したそうです。

バッグに現金をつめて、世界各国を放浪

一連のゴタゴタに嫌気がさした小林氏は、バックに2千万円(!)のお金を詰め、放浪の旅に出たとのこと。実際、日本では、小林旭は行方不明となっていたのだとか。

アメリカ、ヨーロッパ、アジアなどを気分で転々としておよそ1年弱、ローマのホテルに滞在していたところを、ようやく日活の関係者に発見され、映画が待っていると説得され、帰国することになったそうです。

1967年、日活退社と再婚、そして事業の世界への進出・・・

海外放浪から帰国し何本かの映画に出演した後、小林氏は日活の上層部から、ある通達を突きつけられます。それはギャラの値下げ

この時代、娯楽のメインは映画からテレビへの移行が始まっていました。映画会社もその時流に抗えず、ギャラや制作費の圧縮を図ったという次第。

当然、小林氏はプライドを傷つけられ、また一連のゴタゴタに嫌気がさしていたこともあり、日活退社を決意。ちなみにその後の日活は平仮名の「にっかつ」となり、ロマンポルノ路線へ傾倒した末に倒産となるのですから、運命は分からないものです。

加えて、奇しくも時をほぼ同じくして、私生活では女優・青山京子さんと再婚(実際には初婚)。そして、大借金の原因となる事業への進出も、この1967年というタイミングで行われているという、偶然とは思えないような一致がありました。

日活を退社した小林氏は、ほどなくして、自らのプロダクション「アロー・エンタープライズ」を設立。晩年の日活の凋落への反発とばかりに、自ら映画の製作に乗り出しましたが、前述の通り、映画界全体が斜陽となっていたこの時期、かつての『渡り鳥シリーズ』のような利益は最早望むべくもなく、製作の度に赤字が増えていくといった具合だったとのこと。

一方、かつての大スターとして蓄えた資金で不動産取引を行なってみたところ利益率の良さに惹かれ、ある構想が思いついたのだとか。それは、ゴルフ事業でした。

ゴルフ場開発を手がけることになった経緯とは?

話を1955年まで戻しましょう。日活に入社したばかりの頃、当時目をかけられていた映画監督からゴルフというものの存在を教えられ興味をもった小林氏。

偶然にも世田谷の自宅からほど近い砧に当時ゴルフ場があり、通りかかったところ、あまりに素晴しいショットを連発する男性ゴルファーに見とれ、思わず声をかけてしまったとのこと。そのゴルファーとは・・・誰あろう、日本ゴルフ界の神様、中村寅吉プロだったそうです。

以来、俳優業の傍ら、ゴルフにも熱中。空手や柔道で鍛えた肉体と体力もあってメキメキと上達。それこそ、一時は本気でプロゴルファー転向を考えたこともあったそうですが、ある若者の実力を目にして、断念したとのこと。その若きゴルファーとは何を隠そう・・・プロ野球西鉄ライオンズからゴルフに転向した、ジャンボ尾崎氏だったとか。

そうした経緯もあり、本格的なゴルフ場開発を目指して、旭日総業という会社を設立。それこそ、ジャンボ尾崎、青木功といった一流プロが悔しがるようなコースを夢見て計画を着手したそうですが、そこにはまさに、不運の連鎖としか言い様のない事態が待ち構えていました。

ゴルフ場開発の失敗を招いた、不運の連鎖とは

ゴルフ場開発のために土地の入手を初めた矢先、かの第一次オイルショックが襲います。日本全体の経済が停滞し、融資なども鈍ってしまったとのこと。しかし、この時点では、まだ「足踏み状態」で、景気の好転を待つ余裕があったのだとか。

しかし、資金集めとして行った、会員権の先行販売が、当時社会問題化していた詐欺商法として捉えられてしまったとのこと。また、土地や費用の値段交渉の際には、小林旭という名前が逆に足かせとなったのだとか。例えば、大スターの道楽と見られたり、逆に「大スターが細かい値下げなんかしないでくれ」との交渉カードとして使われたのだそうです。

そして、なにより深刻なダメージをもたらしたのは、工事中の土地から、皮肉にも横穴式住居の遺跡が発見されてしまったとのこと。これにより、遺跡部分の工事には待ったがかかり、別の土地を買い足さねばならなくなったのだとか。

そしてとどめの一撃となったのが、第二次オイルショック。この頃になると、切った手形の回収のために借金を繰り返すようになり、地方公演から夜中高速道路を飛ばして現金を運んだり、債権者宅の前を張り込んで、手形を落とさないよう懇願したりといったことまで行なっていたとか。

さすがにこうした状況を見かねた弁護士さんが助け船を出し、奥さんとお子さんを借金取りから匿ってくれた上で、不渡りを出してしてしまうようにと勧められたとのこと。1976年、旭日総業は倒産。会見では負債総額1億4千万円と発表されたそうですが、実際にはその10倍、14億円だったことが後に語られています。

巨額負債の窮地を救った『昔の名前で出ています』の大ヒット

かくして巨額の負債を背負うことになった小林旭氏。前述の通り、奥様とお子さんは匿ってもらっていたものの、小林氏本人は当然ながら借金取りの矢面にたつことに。

ある時などは、さながらかつての日活アクション映画のように、その筋の人間に半ば拉致され軟禁状態に置かれたといったこともあったのだとか。しかし、ちょうど不運の連鎖で旭日総業が倒産したのと引換に、今度は、ある幸運が小林氏にもたらされることになります。

その幸運とは・・・倒産の前年。1975年に発売していた『昔の名前で出ています』の大ヒット。倒産の記者会見で、借金返済は歌での稼ぎを当てていきたいという旨を発言したところ、「小林旭、『昔の名前で出ています』で借金返済を決意!」という見出しが週刊誌などで踊ったことにより、世間のこの曲への注目度が高まったのだそうです。

また、その筋の借金取りへの対応も、こうした状況を逆手に取って上手く利用。彼らの息のかかったキャバレー周りを逆に斡旋してもらうというやり方を交渉し、全国各地のそうしたキャバレーを回ることで、借金を順調に減らしていったのだとか。

もうひとつ追い風となったのが、第一次カラオケブームの到来。現在、通信カラオケDAMや、カラオケボックス「ビッグエコー」を展開する第一興商が、最初期のカラオケ機器の販売促進のため、小林氏とタイアップし、一大ヒット曲となっていた『昔の名前で出ています』を利用したとのこと。

こうした「幸運」が重なり、当初10年はかかるだろうとされていた14億円の借金は、わずか数年で完済したとのこと。不運によって生まれた借金を、幸運によって返済してしまうとは、なんともドラマチックですね。

その後も借金を繰り返し、その度に強運で返済

小林旭という人物について、ある芸能関係者が、次のようなことを語ったそうです。

「芸能界広しと言えど、小林旭ほどの強運の持ち主はいない。莫大な借金を何度も背負うのに、その度にそれを返済してしまえるようなツキが、必ず巡ってくるんだ」と。

前述の通り、ゴルフ場事業の失敗による大借金は、不運によってもたらされましたが、その返済には、幸運が大きく関わっています。そうしたものを引き寄せてしまうのも、スター性ゆえ、なのかも知れません。

バブル時代の投資と、その借金の顛末は・・・

一例を挙げてみましょう。小林氏はバブル期には、蓼科高原や沖縄などでリゾートホテルを経営していたこともあったとのこと。これは、当時の大物芸能人御用達の外車販売店、麻布自動車を率いていた渡辺喜太郎氏に勧められてのことだったとか。

この渡辺喜太郎氏という人物は、戦災孤児から身を起し、自動車販売会社を成功させ、不動産事業にも進出。全盛期には港区に165の土地・建物、ハワイに6つの高級ホテルなど所有し、アメリカの経済誌フォーブスに資産55億ドルで世界6位の大富豪と紹介されたこともある人物。しかし、バブル崩壊後はその資産を失い、その後20年間、債務整理に追われたとのこと。

そんな折、とあるパーティーにて、歌唱ゲストとして招かれていた小林氏と再会した渡辺氏。大ヒット曲『熱き心に』をバンド演奏で披露したのち、「この曲が流行っていたころ、喜太郎さんにアドバイスされて投資したら、同じように失敗した」と、笑いながら語ったそうです。

実際、バブル崩壊で小林氏が背負った借金は、推定40億円とも50億円とも言われていますが、大ヒット曲『熱き心に』のレコード発売、およびその後のCD化にともなう全集としての再発売がいずれもビッグヒットとなり、バブル崩壊での借金を賄えたとされています。

まだまだある、小林旭氏の豪快芸能人伝説

もうひとつ、小林旭という人物の借金にまつわるエピソードとして、次のようなものがあります。

2003年夏、何度目か(?)の借金の最中、返済が滞ってしまったことがあり、債権回収業者によって世田谷の豪邸の仮差押が東京地裁に申請されたということがありました。

この一報を受け、芸能マスコミや親しくしている芸能人たちが、一斉に自宅を訪れたところ、小林氏は「君たちがバタバタ慌てることはない。ほおっておけばいいんだ。なんとでもなるから」と言い残して、そのままゴルフに悠々と出かけていったそうです。

実際、その後に自慢の豪邸が競売にかけられるといったこともなく、またロールスロイスなどご自慢の愛車も手放すことはなかったとのこと。察するに、差し押さえ騒動の時点で「なんとかする」方法に目処がついていたのでしょう。まったくもって、凡人にはとても真似できない芸当です。

今なお、昭和の大スターとしての「粋」を貫き続ける男、それが小林旭

以上の通り、小林旭という人は、かつての盟友・石原裕次郎、かつての伴侶・美空ひばりといった昭和の大スター達とともに築き上げた、価値観やライフスタイルを、未だ一貫して貫き続けている稀有な存在と言えるでしょう。

借金とは直接関係ありませんが、2008年には、当時の山口組系の組長とのゴルフコンペに参加したことが問題視され、PGA(日本プロゴルフ協会)から与えられていた名誉会員資格の返上(実際には剥奪)という事態に。

これに対し「俺が組長とゴルフをしたことで、誰か被害を受けたのか?殺傷事件が起きたとでも言うのか?」と反論を展開したエピソードは有名です。

後日、芸能人への取材力で定評のあるインタビュアー・吉田豪氏が追取材したところ、日活の全盛期には、黒社会との共存が当たり前だったことや山口組三代目・田岡組長とのエピソードなども、包み隠すことなく語られたのだとか。時代や価値観の変化にも、揺るがない姿勢は、さすがといったところでしょうか。

有名人の借金という話題にはいくつも例があり、千昌夫、矢沢永吉、さだまさし、加山雄三、アントニオ猪木、江川卓といった諸氏が有名です。

それらはひとつとして同じケースはなく、返済のやり方は実に様々。一方で、一流芸能人というものは、一般人とは桁違いの稼ぎを自らの力で生み出し、返済しているという点は、敬服に値します。

なかでも、小林旭氏は、負債総額こそ千昌夫氏に及ばないものの、千氏のように特別清算で減額することなく、自らの稼ぎで返済したという点は、芸能界ナンバーワンと言ってもよいでしょう。大スターであり続ける男としての、面目躍如といったところでしょうか。

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