桑田真澄の借金地獄 ~「投げる不動産屋」の揶揄。清原との関係

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桑田真澄の借金地獄 ~「投げる不動産屋」の揶揄。清原との関係
大阪の名門PL学園高時代には1年生からエースとして抜擢。甲子園での大活躍を経て、プロ野球巨人入り。決して恵まれてはいない比較的小柄な身体ながら、通算173勝を挙げ、MVPや沢村賞なども受賞。

現役引退後は野球解説者の傍ら、早稲田大学大学院にて、スポーツ科学研究科修士課程で学び、日本野球界の発展のための研究にも尽力。さらには、東京大学の硬式野球部の特別コーチにも就任。

桑田真澄という人は、単なる野球人という領域にとどまらず、野球界全体の発展のために心血を注いでいる求道者を思わせます。

しかし、プロ入り前後に植えつけられてしまったダーティイメージや、それにともなうスキャンダルや疑惑報道、借金問題などによって、かなりの悪者扱いをされてしまった苦難の時期がありました。

そして奇しくも、かつての盟友、清原和博の逮捕という衝撃。KKコンビの立場は、すっかり真逆となった感があります。

本記事では、そんな桑田真澄氏の借金について、生い立ちや、野球人生、スキャンダルなどの試練の裏側などを交えながらご紹介していきたいと思います。ぜひご覧になってみてください。

桑田氏の生い立ちと、野球人生のはじまり

桑田真澄氏は1968年4月1日、大阪府八尾市生まれ。3人兄弟の真ん中で、上にはお姉さん、弟にはプロゴルファーの桑田泉氏がいます。

率直に言ってしまいますと、当時の桑田一家はかなり貧乏な家庭であったとのこと。こうした家庭環境が、後の 借金や金銭スキャンダルなどに影響したとする声も聞かれますが、ご自分の著書の中でキッパリ否定しています。

ちなみに、父である桑田泰次氏(故人)は、仕事が長続きせず、酒びたりで、家族に暴力を振るうこともしょっちゅうだったとか。

しかし、幼き真澄少年に、野球の楽しさを教えてくれたのは、父・泰次氏であったとのこと。それがなければ、後のプロ野球選手・桑田真澄は生まれていなかったとしています。

ちなみに泰次氏は桑田氏がプロ入りして間もなく離婚。その後はずっと、一家とは距離を隔てていたそうですが、2010年1月に浜松の自宅火災により死去。その訃報に際し、桑田氏は「もう一度キャッチボールをしたかった」と述べています。

少年野球時代から始っていた、特別扱いと周囲からの孤立

やがて本格的に少年野球に勤しむことになった桑田真澄少年。あまりにもずば抜けていた野球センスに、小学校3年生の時点で6年生のチームに抜擢されるといった特別扱いが進学の度に起こり、その都度上級生からの妬みや同級生の嫉妬といったものに苛まれていったそうです。

後年桑田氏が語ったところによれば、そうした辛い体験も自分を鍛える基礎になったとしています。とは言え、まだ年端もいかない少年にとっては、かなり過酷な精神試練であったであろうと、想像できますね。

中学時代から140km/hの球速と抜群のコントロールを発揮

やがて中学に進むと、ここでも1年生からレギュラーとして活躍。中学3年生時には、出場した大阪地区の大会すべてに優勝ということまでやってのけています。

この中学時代に桑田氏のキャッチャーを務め、後に広島カープなどで活躍する西山秀二氏は「中学時代から時速140km位の速さがあり、コントロールも自分が構えたミットに寸分たがわず投げてきました。プロ入り後に、中学時代の桑田よりも劣る選手が何人もいると感じた位でした」と述べています。

中学3年の3学期に、突然の転校、その理由とは・・・

「八尾市に桑田あり」の評判は高校野球関係者にも知れ渡り、当然ながらスカウト合戦が繰り広げられました。ここで桑田氏は、母校の中学との軋轢を起こしています。

ご存知の通り、桑田氏はその後PL学園へと進むのですが、これは夢であり目標としていた「PL学園→早稲田大学→巨人軍」という道を行くつもりでいたとのこと。

ところが、ある高校が母校の中学に「桑田を寄越してくれれば、他の5人の野球部員もまとめて入学させる」との取引をもちかけており、母校は桑田氏にその高校への進学を半ば強要。

桑田氏にとっては受け入れられるものではなく、中学3年の3学期に転校するという事態になりました。自らの信念を貫くという姿勢はこの頃から垣間見えていたということになりますが、それが不運にも、プロ野球デビュー後のバッシング材料となってしまうのですから、運命とは皮肉なものです。

PL学園への進学、「KKコンビ」の大旋風

晴れてPL学園に入学した桑田氏。中学時代の実績はあったものの、身長170cm台という比較的小柄な体格ゆえ、当初は外野手へのコンバートが検討されたそうですが、その才能を見抜いたコーチにより、およそ2ヶ月間の特訓。1年生ながら大阪地区予選で先発投手として抜擢されます。

このことに上級生たちは反発したものの、同級生清原の打撃援護もあり、桑田氏は完封勝利。上級生たちを実力で黙らせます。

そして甲子園の本戦、当時高校野球最強と称されていた池田高校のエースで、後に巨人でチームメイトとなる水野雄仁氏からホームランを放ち(この試合、清原は4三振)7対0で快勝。決勝でも関東の名門である横浜商業を下し、1年生のKKコンビは大旋風を巻き起こしました。

「KKコンビ」が残した、甲子園の伝説と記録

ではここで、桑田・清原のPL学園高時代の記録をおさらいしておきましょう。

KKコンビは出場可能な5回の甲子園にすべて出場。1年夏と3年夏の2回優勝だけでもスゴイことですが、2年は春夏とも準優勝。3年春はベスト4。とてつもない成績を残しており、当然プロ野球界からも注目されます。

しかし、運命は思いもよらない形で、同じ巨人の先輩でもある江川卓氏の「空白の一日」にも匹敵する、「KKドラフト事件」を迎えることになるのです。

後年、王貞治氏から贈られた言葉と、それに対する反応

1994年のシーズンオフ、最優秀バッテリー賞を同僚の村田真一捕手と受賞した表彰式において、かつての巨人軍指揮官、王貞治氏より次のようなスピーチがなされたそうです。

「ドラフトで強行指名してしまったことに責任を感じている。本来であればもっと良いイメージをもたれるべきだったのに、マスコミや世間から散々叩かれることになってしまった

このスピーチに対し、桑田氏は「あのことのおかげで、精神的に強くなることができ、マウンドの上での動揺を抑えることも可能になった。むしろ王さんには感謝しています」と述べています。

今では桑田氏の人柄が感じられますが、その少し前までは桑田氏はまさに苦難の連鎖という感じで、ダーティイメージが積み重ねっていました。その発端となったのは、言うまでもなく、KKドラフト事件です。

悲劇のヒーロー清原、ダーティな桑田という図式

ではあらためて、桑田氏がダーティイメージに突き落とされるきっかけとなった1985年のドラフト会議について、より詳しく見ていきましょう。

甲子園の2大ヒーローとしてその去就が注目されていたKKコンビ。清原はかねてより巨人入りを志望。桑田氏は早稲田進学を目指すとしていました。

しかし、桑田氏は中学時代に掲げた夢として巨人入団という希望も持っており、巨人に指名されたら入団、それ以外の球団だったら早稲田進学と決めていたそうで、それに備え高校時代の成績も上位、受験勉強にも勤しんでいたとのこと。そして結果はご存知の通り、読売巨人軍の1位指名は桑田氏。

この結果を受け、当時のマスコミは事前に密約があった、桑田の二枚舌などと書き立てることになります。

また入団会見時、記者から嘘つき呼ばわりされたことに対して「そう思うなら、思ってください」と返答したことによって、さらに火に油を注ぐ結果になりました。スポーツ新聞はもとより、一般紙も批判的な記事を展開します。

しかし、この返答こそは、まさに本心であり、実際その後の活躍によって名誉を回復することこそが、桑田流だとしています。後述する借金や名誉毀損スキャンダルについても、マスコミには、この姿勢を貫いたとのこと。

もうひとつ、近年であれば、大学や社会人野球を希望していた選手が一転プロ入りしたとしても、叩かれるどころか好意的に報道されるのに、自分の時はなぜああなってしまったのかとも嘆いています。

察するに、やはりPL野球部時代の親友「清原選手」への裏切り行為とみなされたことがひとつ。そしてもうひとつは、巨人の先輩である江川卓氏の空白の一日事件の影響も否めないところですね。

スポーツ用品メーカーによる「裏金」疑惑報道:桑田氏の苦難の始まり

入団時の騒動から数年。主力投手の一人として着実に成績を伸ばしていき、少しずつマイナスイメージを払拭している最中、またしても桑田氏は大きな苦難に直面します。いわゆる「裏金」疑惑報道です。

ことの発端は、1989年のシーズン中に発覚した出来事。当時桑田氏が契約していた運動用具メーカーから、不明朗なお金が桑田氏の口座に直接振り込まれていたというもの。週刊誌などは、一斉に「裏金疑惑」と報じ、球界関係者などと自称する人間の、まことしやかな証言とやらで誌面が埋め尽くされました。

桑田氏自身はその事を全く感知しておらず、報道によって振込の事実を知った位だったとのこと。もちろんそのお金は直ちに返却し、球団に調査を一任。

結果、裏金ではないとされたものの、騒ぎを起こしたことに対して、罰金200万円が課せられたとのこと。そして、その翌年、桑田氏に野球人生最大の疑惑が降りかかってくることになります。

スポーツ用品メーカーの元担当者による暴露本:野球賭博への関与疑惑

中高年で野球に詳しい方なら、中牧昭二という名前に見覚えがあることでしょう。前述の桑田氏に不明朗なお金を振り込んだスポーツ用品メーカーの元社員で桑田氏の担当者だったという人物です。

この中牧が1990年に出版した暴露本『さらば桑田真澄、さらばプロ野球』は、世間に大きな衝撃をもたらしました。とりわけ注目されたのは、同書の中で、桑田氏が自身の登板日を、かつて賭博で逮捕歴がある人物に漏洩していたとされる点です。

野球賭博への疑惑、その真相は・・・

後年、桑田氏はその事情を次のように説明しています。登板日を漏らしたとされるその人物は、当時巨人軍の寮近くで飲食店を開いており、親しくなるうちに「明日投げるんでしょ」、「頑張ります」といった会話をしていただけとのこと。

また、中牧がかつて所属していたメーカーとの話し会いも行われ、中牧が桑田氏を接待したとして計上された経理もデタラメだった(例えば、桑田氏がナゴヤ球場で登板した日に、都内で接待したとしていた)ことが明るみに出て、誤解が解けたとも。事実、桑田氏はこのメーカーとその後も契約を続けています。

ただし、この飲食店経営者氏から、遊興につきあってくれたお礼として、高級腕時計と現金を受け取ってしまったことは事実と公表しました。

その結果、桑田氏には罰金1,000万円と開幕から1ヶ月の出場停止という処分、ただし野球賭博に関してはシロとされました。また中牧と出版社を相手にした訴訟においても、野球賭博には関わっていないことは合意され、事実上の和解となりました。

ちなみにこの年、桑田氏は1ヶ月の出遅れがあったものの、終わってみれば14勝を挙げ防御率も2.51と、同僚の斎藤雅樹氏に次ぐセ・リーグランキング2位の成績を残しています。

しかし、結果はどうあれ、この事件は桑田氏ダーティイメージをより増幅させることになりました。桑田氏自身も、いっそ自殺して楽になろうかと思うまで、精神的に追い込まれていたそうです。

そしてその翌年、今度は桑田氏の借金問題がクローズアップされることになり、悪評のピークを迎えるのです。

莫大な借金の理由、その原因は、言わずと知れたバブル崩壊

1991年といえば、まさにバブル崩壊のタイミング。桑田氏の借金は、不動産売買の失敗によって課せられたものになります。

その金額は、ネット上やゴシップ誌などでは15億円とも17億円とも言われていますが、桑田氏の著書でも10億円以上とされているので、いずれにせよ莫大な金額であったことは間違いないようです。

その一方で、実はこの借金は、桑田氏ご本人が直接関わったものではありませんでした。桑田氏はあえて明言を避けていますが、この不動産取引は、義理兄(お姉さまの夫)が桑田氏の名義で行ったことが知られています。

信頼していた人間にまで詐欺まがいのことをされたことで、重度の人間不信に陥ってしまったとのこと。また、貧乏だった幼少期からの夢叶い、ようやく建てた自宅もわずか1年で手放すことになります。

この年、桑田氏を揶揄する言葉として「投げる不動産屋」という一文が加わりました。

ただし、そうした逆境をバネに変えてしまうのも桑田流。この1991年シーズン、16勝という素晴しい成績を残します。しかしマスコミからは「ふてぶてしい」「厚顔無恥」といった評価しかされなかったとのこと。

ちなみに借金については、球団が返済計画の立案や金融機関との交渉などをサポートしてくれ、後に完済されたとのこと。桑田氏の生涯年棒は30億円程度であり、上手にやりくりして返済したものと思われます。

大きな救いとなった、義理の父上からの言葉

こうして大きな借金を抱え、さらには名誉毀損の裁判などでも精神的ダメージが蓄積されていた桑田氏。そうした中で心の拠り所となったのは91年のシーズンオフに結婚することになる真紀夫人だったとのこと。

挨拶に出向いた真紀夫人の実家にて、桑田氏は開口一番「お嬢さんをください」ではなく「これだけ借金があります」と伝えた上で、結婚の許しを請うたそうです。

それに対し、真紀夫人のお父上は「こうゆう辛い時の君を選んだのだから、娘の気持ちは本物だろう」と結婚を承諾してくれたとのこと。この言葉に桑田氏は、感動しきりだったそうです。

また真紀夫人は結婚後、桑田氏の投球フォームチェックをビデオに撮影したり、栄養管理にと、内助の功を果たしていったとのこと。この点は、逮捕前に夫人と離婚してしまった清原とは対照的ですね。

伝説の「10.8」、運命の決戦前に桑田氏が流していた涙・・・

1989年の藤田監督以来、桑田氏は斎藤雅樹、槙原寛己両投手とともに「三本柱」と称され、名実ともに巨人の中心選手として活躍。しかしながら、ドラフト事件やその後の疑惑や借金問題など悪評に苛まれていたことから、人気は実績に伴っていませんでした。

とりわけ、ライバルチームのファンはもとより、巨人ファンからも罵詈雑言を長年浴びせられ続けていたことは、相当に辛かったとのこと。そして、それが変わったのは、かの「10.8」決戦であったのだそうです。

ご存知ない方にご説明しますと、「10.8」決戦とはナゴヤ球場で行われた1994年のセ・リーグ最終戦のこと。巨人と中日が全くの同率で並び、この試合に勝った方が優勝という、まさに世紀の一戦でした。

この試合前、ウォーミングアップで外野をランニングしていた桑田氏は、レフトスタンドの巨人ファンから「やっぱりお前しかいない!」、「今まで済まなかった、今日は頼む!」といった涙ながらの叫び声に包まれたそうです。このことに桑田氏は感涙。ようやくファンから認めてもらえた瞬間だったと振り返っています。

そして結果は、槙原、齋藤、桑田という通常の試合ではありえない三本柱の必勝リレーによって巨人が快勝。続く日本シリーズでも、4勝2敗で西武ライオンズを下し、日本一となりました。そして記者の投票によって決定されるMVPにも選出。日本一というだけでなく、背負い続けていた十字架からようやく解放されたという意味でも、まさに桑田氏にとって、最高のシーズンであったと言えるでしょう。

あらためて振り返る、桑田真澄と清原和博の関係

ここからは、桑田真澄という人物とは切っても切れない、清原和博との関係について、今だからこそ考察していきたいと思います。

大いなる衝撃をもって伝えられた、清原逮捕の報道。しかも逮捕容疑は覚せい剤。それに対するコメントとして、桑田氏は引退後の清原の奇行や疑惑に対して、小姑のように苦言を呈していたそうですが、3年ほど前に「一切関わらないでくれ」と絶縁していたことを明かし、「言い続ければよかった」と後悔を表しました。

本記事の前半でも触れています通り、PL学園の投打のスターであった2人は、KKドラフト事件によって、現役時代の清原は悲劇のヒーロー、桑田氏は腹黒い悪者とされてきました。ところが今や、その立場はすっかり逆になってしまい、人生というものは分からないものですね。

では、なぜそんなことになってしまったのか。清原転落のきっかけとして挙げられているのが、1997年の巨人へのFA移籍です。

巨人でのKKコンビ復活、しかし・・・

これまた本記事前半で触れています通り、清原は幼少期から巨人入りを熱望しており、FA権を行使して巨人へと移籍。KKコンビ復活は大いなる話題と期待を集めました。

しかし蓋を開けてみれば、移籍1年目こそ活躍したものの、それ以後は、西武時代の大活躍は見る影もなく、また怪我も頻発

それでも長嶋監督時代、第一次原監督時代は、これまでの実績や独自の存在感などが認められていましたが、堀内監督とは深刻な対立関係に。またこの頃になると、「ナベツネ」こと巨人軍・渡辺会長からも紙面などにて名指しで批判される始末。結果、2005年シーズンをもって戦力外通告がなされます。その後オリックスに移籍しますが、ここでも怪我に悩まされ、引退に追い込まれました。

ちなみに、桑田氏も晩年は右肘や足首の怪我に悩まされ2006年に巨人を退団。メジャーリーグのピッツバーグ・パイレーツへの挑戦をへて、2008年春に完全引退することになります。

引退後・・・片や番長キャラ、片や早稲田大学院生

引退後のKKコンビは、まさに真逆の方向へと進みます。清原は西武時代の爽やかな面影はなくなり、強面のいかつい番長キャラとしてタレント活動。しかも、巨人のキャンプ地に、上下白のスーツで現れるなど、不可解な奇行が目立つようになります。イチローや松井秀喜などと並ぶ大打者とは思えないほどの凋落ぶり。

一方、桑田氏は早稲田大学大学院にて、野球界に未だはびこる、体罰や精神論、根性論などの起源や実態調査などに勤しみ、その研究結果は大いに評価。また東大野球部の特別コーチにも就任。さらには加藤コミッショナー時代に起きた「統一球問題」の検証委員会にも、野球関係者から唯一選ばれています。

そして清原の覚せい剤容疑での逮捕。野球の試合での大逆転は興奮を与えてくれますが、KKコンビの人生の逆転などは、見たくなかったというのが、多くの野球ファンの想いでしょう。

「いずれ分かります」の精神を貫き当した、桑田氏のゆるぎなさ

以上の通り、ドラフト事件から10年近く悪者のレッテルを貼り続けられた桑田氏は、「いずれ分かります」という名言とともに毅然とした態度を取り続け、野球の結果で自ら名誉を回復し、借金も自らの稼ぎで返済しました。並みの精神力では、出来ることではありません。

一方、清原は実はナイーブで小心な面があり、強面な風貌や他人を威嚇するような言動も、実はそうした弱さを隠すためだったという証言がなされています。そうした行為の最悪な手段として、覚せい剤に行き着いてしまったのだとしたら、なんともやりきれませんね。

今後、清原がどうなるのかは分かりませんが、それこそ桑田氏のように、自らの言動で名誉を回復してもらいたいと願うばかりです。そしてその際には、ぜひ桑田氏にも、名誉回復の経験者であり先輩としてサポートをしてあげてもらいたいですね。それが出来るのは、高校時代からの仲間である、桑田氏を置いて他にいないのですから。

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