さだまさしの借金地獄(1) ~ 映画「長江」で負債28億円の理由

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さだまさしの借金地獄(1) ~ 映画「長江」で負債28億円の理由
歌手生活40年以上。前人未到のソロコンサート4千回以上。歌もさることながら、トークイベントなどでの面白さでも観客を魅了。近年では小説家としての顔ももち、作品の映画化やドラマ化も多数。

これらの枕言葉で語られる人物といえば・・・そう、シンガーソングライターのさだまさし氏です。

そして、もうひとつ外せない話題と言えば、若き日にドキュメンタリー映画『長江』の製作で28億円(金利を含めると35億円)もの借金を背負うことになりながら、およそ30年かけて完済したというエピソードです。

本記事では前後編に渡り、さだまさし氏の借金と人生について、取り上げていきたいと思います。今回はその前編として、生い立ちから青春時代、デビュー、そして映画製作で借金を背負うまでをご紹介しましょう。

後の借金にも大きく関わる、さだ氏の家族と生い立ち

さだまさし氏(本名:佐田雅志)は1952年、長崎県長崎市の生まれです。

弟は事務所の社長としてさだ氏を支える佐田繁理氏。妹はシンガーソングライターとして同業者でもある佐田玲子氏。

そして父上は、ファンの間でも高い知名度を有していた佐田雅人氏(故人)。さだ氏の楽曲の多くは、ご家族からのインスピレーションが大きいことで知られていますが、こと借金に関しても、父・雅人氏が大きく関わることとなります。このことについては、後ほど詳しく。

ご祖父母にも触れておきましょう。そもそも佐田家は島根県の大地主という家柄だったそうですが、次男坊であった祖父・繁治氏は、なんと中国大陸を舞台に諜報活動を担っていたスパイ(さだ氏はトーク番組などで『国際探偵』と表現)であり、その後は当時の商工省(現在の経済産業省)にて大臣秘書官も務めたという人物。

また、お祖母さまも当時のソ連(現ロシア)のウラジオストクで料亭を営んでおり、お祖父さまを匿ったのが縁で結婚、夫婦になったとのこと。ごく一般的な家庭とは大きく異なる家柄だったことは、意表をつかれた感がありますね。

わずか3歳でバイオリンを開始、裕福だった幼少時代

父・雅人氏は第二次大戦に陸軍兵として従事し中国戦線を戦った後、長崎出身の戦友とともに復員。長崎に住み着き、戦友の妹と結婚し、3人の子供をもうけます。その長男がさだ氏です。

雅人氏は復員後、材木商を経営。原爆被害からの復興需要もあり、一家は大変裕福であり、自宅は10部屋もある豪邸だったとのこと。

そうした、家庭環境もあり、さだ氏は3歳でバイオリンを買い与えられ、めきめきと腕を上げていったのだそうです。しかし、誰もが羨むそんな生活は、突然一変してしまいます。

富裕層から極貧への転落・・・それでも続けたバイオリン

その原因は1957年の諫早大水害。当時の日本歴代最高記録となった集中豪雨によって、扱っていた木材がすべて流されるという大損害を被り、それがもとで実家の商売は倒産。豪邸から質素な長屋へと移り住むことになります。

さだ氏がトーク番組などで語ったところによれば、小学生時代は給食費も滞納してしまうほどの貧乏ぶり。それにも関わらず、お母様の強い意向でさだ氏にバイオリンを続けさせたそうです。さだ氏によれば、意地や見栄と言うよりは、厳しい暮らしの中で希望を見出すためだったのではないか、とのこと。

破天荒&やんちゃな父、雅人氏のエピソード

父の雅人氏は、いわゆるお人好しで自分が貧乏にも関わらず、他人の保証人になってしまい、借金を重ねることもしょっちゅう。そのくせ、自家用車や大型オートバイはちゃっかり所有していたといったエピソードがさだ氏により語られています。

また、負けん気の強さや理不尽さへの抵抗も相当なもので、詐欺を働こうとした不動産業者を逆に窮地に追い込むよう工作したり、刃物で脅してきた借金取りを、車に引きずりこみ港から海へ転落させようとしたりと、かなりのやんちゃぶりだったとのこと。

さだ氏によれば「とにかくめゃくちゃな親父でしたが、不思議と人からは好かれることが多くて、でもってまた調子に乗るという繰り返しでした」とのこと。

ちなみに、グレープとして初のビッグヒットとなった『精霊流し』の印税でまずしたのは、父・雅人氏の借金返済だったとも。この時点では、数年後、ご自分が28億円の借金を背負うことになるとは思っていなかったことでしょう。

こうした雅人氏のエピソードは他にも、さだ氏の自伝的実名小説『かすてぃら』などによって紹介されています。ご興味のある方はぜひ。

バイオリンコンクール入賞をきっかけに、中学1年での上京を決断

さて、話しを佐田雅志少年に戻しましょう。極貧の中で父の破天荒ぶりを目の当たりにしながらも、バイオリンに関してはめきめきと上達。小学5年生と6年生の2年連続で九州地区の音楽コンクールに入賞を果たしました。

これが著名なバイオリン指導者の目にとまり、修行のため上京しないかという誘いが。相変わらずの極貧生活にも関わらず、ご両親の期待に応えるべく、中学1年で単身での上京を果たすことになります。

親類宅に下宿し、東京の中学に通いながらバイオリンのレッスンに励む日々。そんな中で雅志少年は、東京のレベルの違いを思い知らされたとのこと。長崎時代は自分でも天才と思っていた腕前が、東京に来てみたら、メジャーリーグではなく3Aクラスのトップに過ぎなかったと語っています。

ポピュラー音楽&落語への傾倒、高校受験失敗の挫折

高かった鼻をへし折られたものの、雅志少年はバイオリンの道を諦めた訳ではありませんでした。

しかし、同時期にクラスメイトやその親御さんとの交流を深めるうちに、ポピュラー音楽への傾倒からギターを開始。ほどなく作詞・作曲にも手を広げます。ちなみにお気に入りは、加山雄三とサイモン&ガーファンクルだったとのこと。

加えて、連れていかれた寄席での落語体験をきっかけに落研にも所属するなど、決してバイオリン一辺倒という感じではなくなってしまったとのこと。

そのせいばかりでもないでしょうが、結果として志望していた音楽大学付属高校への受験を失敗。普通科高校への進学を余儀なくされます。さだ氏曰く「人生で最初に感じた挫折だった」とこと。

高校時代、作詞・作曲や話術の才能の本格開花

失意の中で始まった高校生活でしたが、ギターや作詞・作曲、小説作り、落語といった後に発揮されるさだまさしの才能は、高校時代に開花していったとのこと。

また、高校時代の仲間との出会いの中には、後にグレープを結成する吉田正美氏(現・政美)も含まれており、音大付属高校の受験に成功していたら、シンガーソングライターさだまさしは誕生していなかったかもしれません。

また、トークの話術も落研に所属していたことで磨きがかかったとのこと。お米屋と肉屋を経営していた同級生の親御さんにいたっては、雅志少年の落語を気に入り、毎日のように食事を振舞う代わりに一席設けさせていたとのエピソードも。貧乏な金銭事情は相変わらずだったため、東京のお父さんとして慕っていたそうです。

音大受験の失敗、バイオリンへの情念の衰え

そうした状況下においても、バイオリンで身を立てることは諦めておらず、普通科高校から音大への進学を目指して受験しましたが、またも失敗。バイオリンに関して2度目の挫折を味わったことで、情熱が冷めてしまったと同時に、故郷のご両親への申し訳なさに苛まれてしまったとのこと。

大学は法学部に進学したものの、当然身が入るわけもなく、ほどなく中退。昼はペンキ屋、夜は飲食店でアルバイトを掛け持ちし、やけ酒という日々を送っていたところ、肝炎を発症。長崎へ帰郷し、静養することとなります。

吉田正美氏の長崎への逃亡~フォークデュオ「グレープ」の結成

長崎で療養中の雅志青年に、ある知らせが届きます。高校時代の音楽仲間で、卒業後はセミプロバンドに加入していた吉田正美氏が、バンド活動を突然放棄し、失踪したとのこと。

吉田氏が所属していたセミプロバンドはいわゆるキャバレーのドサ回りを行うもので、音楽性も合わず無断で逃げ出してきたというもの。

雅志青年は、当初は吉田氏を叱責して東京に戻るよう諭すつもりだったそうですが、実際に長崎にやって来て対面したら、何も言えなくなってしまったとのこと。そのまま実家での同居生活が始まり、「グレープ」が結成される運びとなりました。佐田雅志青年は、ミュージシャンさだまさしとなったのです。

地元長崎でのライブ活動スタート~全国区の人気グループへ

グループとして活動を開始したグレープ。ギターとバイオリンという組み合わせは当時でも例がなく、また音楽性の高さや歌詞の世界観などが次第に評判となり、ライブハウスやコンサートでの動員を増やしていきました。

やがてプロのスカウトを受け、レコードデビュー。しかし1曲目はまったくヒットせず。2曲目も当初は鳴かず飛ばずだったものの、ラジオの深夜番組で火がつき、大ヒット。その年の日本レコード大賞作詞賞を受賞するにいたりました。それこそが『精霊流し』です。

『精霊流し』の大ヒット~わずか2年半での解散

130万枚という大ヒットとなった『精霊流し』は、水難事故死してしまったさだ氏の母方の従兄への想いが基になっているのだとか。生前は大変仲がよく、また音楽的な才能もあり、グレープは3人組になっていたかもしれないとのこと。供養という意味でも、この曲は大きな役割を果たしたと言えるでしょう。

その一方で、グレープには「暗い」というレッテルが貼り付けられてしまいます。続いてヒットしたシングル「無縁坂」、アルバム「縁切寺」も同じような傾向であったことも拍車をかけました。

そして皮肉なことに、グレープとしての活動が多忙を極めたことにより、さだ氏は肝炎を再発。また前述の暗いというイメージを変えるための充電期間をとるという目的も併せ、休養を願い出たものの受け入れられず、それならばと僅か2年半でグレープは解散することとなりました。

なお弟・佐田繁理氏によれば、グレープ時代の2年半で既に440回のコンサートをこなしていたとのこと。後のソロコンサート4,000回達成の礎はすでに築かれていたと言えるでしょう。

また、相棒であった吉田氏とは喧嘩分かれした訳ではなく、ライブへのゲスト出演や裏方としての協力など、ソロ転向後も親交を続けています。

“ソロ歌手さだまさし”として、再スタート

グレープ解散後、半年ほどを病気の療養に充てたのち、ソロシンガーとして再出発を図ります。それにあたり、グレープ時代は所属事務所と衝突し、自分の意思が通らず、自由な楽曲製作もままならなかった経験から、個人事務所「さだ企画」を設立。

社長には実弟の佐田繁理氏が就任。また後にシンガーソングライターの同業者となる妹の佐田玲子氏も、当初は会社の事務を手伝いながら音楽活動を開始。

そして、さだ氏のグレープ時代の稼ぎで借金をなくしてもらい、時間を持て余していた、かの父・雅人氏も事務所を手伝うようになります。このことが、後の28億円の借金にも大きく関わってくるのですが、この時点では神のみぞ知るところだったのでしょう。

『雨やどり』で初のオリコン1位、名曲『秋桜』を山口百恵に提供

万端の準備(?)を整え、再スタートを切ったさだ氏。大きなムーブメントは、2枚目のシングルで早くももたらされます。

『雨やどり』と名付けられたこの楽曲は、グレープ時代に「暗い」とレッテル貼りされたことへの反論とばかりに、明るくコミカルな内容。しかも曲の最後で、落語的なオチが待っているという画期的なものでした。

これにより、さだ氏は自身初のオリコンチャート1位を獲得(『精霊流し』は2位が最高位)。加えて、時のスーパーアイドル山口百恵さんに楽曲提供した『秋桜(コスモス)』も大いに名声を高め、トップアーティストの仲間入りを果たしました。

勢いで、地元長崎の無人島を2,000万円で購入!

そんな折、さだ氏は、地元長崎の放送局関係者から、一本の電話を受けました。その内容は「地元長崎市の大村湾内にある小さな無人島を買わないか?」というもの。一般人ならば、「冗談言ってるんじゃねーよ」、と返すところですが、さだ氏は「買う、買う!」と即答したとのこと・・・芸能人ではたまに聞かれる類のエピソードですが、この辺りは、父・雅人氏と血は争えないというところですね。

後に語ったところによれば、さだ氏は少年期に愛読した『十五少年漂流記』や『トム・ソーヤ』、『ハックルベリー・フィン』といった冒険活劇に大きな憧れを抱いており、その世界観を実現したいという夢があったとのこと。

なお「寺島」と呼ばれていた全周約800mのこの島は、1995年にはさだ氏の意向や働きかけもあり、「詩島(うたしま)」と改名されました。

島には福岡の太宰府天満宮から分祀された神社の他、ガス電気水道を海底ケーブルで引き、バンガローも常設。

現在は建物の老朽化により休止しているそうですが、かつてはファンを対象に宿泊ツアーも実施していたとのこと。これらの設備費用は、島の購入費が2,000万円だったのに対し、1億円近くかかったのではないかとのとこと。

ちなみにさだ氏曰く、購入後に仲間や関係者とともに初上陸をしようと船を着けたところ、父・雅人氏がひと足早く、ちゃっかり上陸していたとのだとか。さもありなん、というエピソードですね。

また、28億円の借金の際、自己破産していたら、この島の権利も当然手放していたことになり、大変だったけれどもそうしなくて良かったと、完済後に語っています。

『関白宣言』の大ヒットと、高まるバッシング

トップアーティストへの階段を順調に上がっていったさだ氏。その地位を揺るぎないものとしたのが、ご存知『関白宣言』です。数ある楽曲の中でも一般的な知名度という面では群を抜いていると言ってよいでしょう。

説明するまでもありませんが、その内容は結婚に際し、亭主関白になると宣言しながらも、自分の弱さや相手への愛情を不器用かつコミカルに表現しているという内容で、160万枚というさだ氏最大のヒット曲となりました。

しかし、世の中の常として、ヒット作品が生まれると、やっかみや妬み、バッシングもついてくるもの。女性団体などから「女性差別」、「男尊女卑」といった攻撃にさらされることになります。

度重なる楽曲へのバッシングと、精神的な苦痛

実はさだ氏にとって、口さがない人たちによって自身の楽曲が批判に晒されるという事態はグレープ時代から頻発していました。

近年、ラジオ番組にて本人が語ったところによれば、曲ごとの批判内容は次の通り。

●『精霊流し』 → 暗い
●『無縁坂』 → マザコン
●『雨やどり』 → 軟弱
●『関白宣言』 → 女性蔑視
●『防人の詩』 → 右翼、戦争美化

こうした心無い批判に晒され続け、精神的なダメージが蓄積していった末に、さだ氏は「まともに相手にしなければいい」という境地に達したとのこと。

また「世の中の8割が敵でも、2割の濃い味方がいてくれれば、人生はやっていける」という発言も。もちろんその2割とは、自身のファンや信頼を置くスタッフ、仲間や友人であることは言うまでもありません。

映画への傾倒、そして『長江』までの道のり

先にも述べたように、度重なるバッシングに対して、ある種の気分転換の役割を担っていたのが、日本映画との関わりでした。

特に、映画『翔べイカロスの翼』ではサーカス団のピエロの青年役として初主演し、音楽と主題歌『道化師のソネット』も担当。映画への関心を高めていったとのこと。

折しも、度重なる自曲への批判に辟易していたこともあり、日本を離れて、何かやりたいという話しが、父・雅人氏、弟・繁理氏を交えしばしば盛り上がっていったのだそうです。

そして大きなきっかけとなったのが、酒の席で冗談的に発せられた「長江の最初の一滴を見てみたくないか?」というひと言。ここから、未曾有のドキュメンタリー映画『長江』への挑戦と、28億円という借金が、始まっていったのだそうです。

補足:映画『長江』は失敗作だったのか?

映画で莫大な借金を背負った・・・そう聞くと、映画自体が失敗作だったのだなと思ってしまいがちですが、それは違います。

さだ氏の名誉のため言っておきますと、映画『長江』は興行的に失敗したわけではありません。ドキュメンタリー設定の作品としては異例の120館上映というヒットとなりました。

またスタッフ陣も脚本は長野広生と菊池昭典、演出は徳安恂といった面々を擁し、そして撮影終了後の映像編集は、かの巨匠市川崑監督が務めたというもの。音楽もさだ氏自身が関わり、主題歌も自身の『生生流転』です。

そしてなにより、1980年前後の、当時の長江沿岸や街並、中国国民を記録した貴重なフィルムとして高く評価されており、とりわけ三峡ダム建設プロジェクトによって大きく景観が変わってしまう以前の三峡や、三国志にも登場する白帝城などが記録として残されていることなどが、ドキュメンタリー作品として高く評価されています。

では、なぜ28億円もの借金となってしまったのでしょうか。端的に言ってしまえば「元手(製作費)をかけすぎた」ということになります。より詳しくは、後編にて、詳しく掘り下げていきたいと思います。



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