さだまさしの借金返済(2) ~ 35億円完済までの30年の道のり

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本記事前編では、シンガーソングライターのさだまさし氏の生い立ちから、青春時代、歌手デビューとその後の活躍、そして借金についての概要までをご紹介してきました。

前編 さだまさしの借金返済(1) ~ 映画「長江」で負債28億円
そして今回は、いよいよ28億円(金利を含めると35億円)もの巨額負債とその返済までの30年について、詳しく掘り下げていきたいと思います。

大借金の原因となったドキュメンタリー映画『長江』は、果たしてどのような経緯で製作されたのか。それほどの金額を、どのように返していったのか。そこには、さだまさしならではの理由とやり方がありました。ぜひ、ご覧になってみてください。

バブル時代よりも前に、20代で背負ったさだ氏の借金

芸能界での借金という話題は、それこそいくつもの事例が語られています。有名なところでは、矢沢永吉氏や千昌夫氏、故・藤田まこと氏などなど。

しかし、これらの方々は、いわゆるバブル時代以降で主に副業や別事業などでの借金だったのに対し、さだ氏はバブル以前の時代、20代後半という若さで、芸能活動の一環として28億円という金額を背負ったことが、大きな違いと言えます。

また、一般人の借金の場合、株式投資や不動産投資の失敗、あるいはギャンブルへの注ぎ込みなど、理由は様々でしょうが、若くして28億円という金額を、そもそも借り入れること自体がほぼ不可能です。

完済後のトークイベントなどでは「貸した方もプロだから、さだなら返せるとふんだのでしょう。そう思ったら、自分も一生懸命返すしかないと思った」と語っています。

同時に「過払い金とかなかったのかなぁ・・・ちゃんとした銀行だから、それはないか」と、お得意の話術で笑いをとっています。この辺にも、転んでもただでは起きない、負けじ魂や人生観が見受けられますね。

あらためて、ドキュメンタリー映画『長江』とはなんだったのか?

ここからは、映画『長江』について、あらためて掘り下げていきましょう。本記事前編でも触れています通り、この作品はドキュメント設定の映画としてはヒット作とされています。80年代当時の長江沿岸の街並みや中国国民の姿を映像に残した貴重な記録としても評価されている程。決して興行的に失敗して借金を背負ったというわけではないことにご留意ください。

そう聞くと、では何故、結果として莫大な借金を抱えてしまったのかという疑問が湧いてくることでしょう。端的に言ってしまえば「元手(製作費)をかけすぎた」ということに尽きます。

そこでまた、別の疑問が出てきますね。なぜそこまでお金をかけなければならなかったのか、と。それにはいろいろ込み入った事情が複雑に絡んでくるのですが、これも端的に言ってしまえば、祖父・繁治氏と父・雅人氏の中国への想いを背負っていたから、という理由になります。

中国への関心、きっかけは祖父から祖母への手紙

では、あらためて、さだ氏の祖父・繁治氏についておさらいしておきましょう。本記事前編でも触れましたが、佐田繁治氏は、明治末期から大正にかけて、中国大陸を舞台に諜報活動を担っていたという人物です。

実家にはそんな祖父から祖母に宛てた手紙が残っており、少年期のさだ氏が読ませてもらったところ、そこには「四川省に日本人は、私1人であります」という一文が。そのことに強烈な感動を覚え、それ以来いつか自分も四川省に行かなくてはという想いをずっと抱いていたとのこと。

このことが、後のドキュメント映画『長江』につながっていく最初のきっかけだったとのこと。ただし、当初はそれで記録映画を撮ろうという気は全くなかったのだそうです。映画製作の具体的な話が進んでいくのは、かの『関白宣言』の大ヒット以降なのです。

『関白宣言』へのバッシングで芽生えた、「日本を離れたい願望」

これまた本記事前編でも触れましたが、さだ氏のヒット曲に対しては、批判やバッシングといったものが度々ついて回りました。なかでも『関白宣言』については、男尊女卑や女性蔑視といった批判が女性団体から発せられ、週刊誌などでアンチ記事が繰り広げられたのです。

精神的ダメージを重ねていったさだ氏は父・雅人氏、弟・繁理氏など心を許せる人に、日本を離れて、何かやりたいとこぼすようになっていったとのこと。

折しも初主演映画『翔べイカロスの翼』にサーカス団のピエロの青年役として出演したことで、映画への関心を高めていったとこともあり、やるなら映画だろうという流れになっていったとのだとか。

そして決定打となったのは、酒の席にて冗談半分で発せられた「長江の最初の一滴を見てみたくないか?」との言葉。これが映画『長江』の始まりであり、同時に28億円負債の始まりでもあったのです。

中国電視台に企画書を提出・・・中国政府からのまさかの返答!

そこから、さだ氏はひと月半ほどで、長江沿岸を舞台にした記録映画の企画書を制作。とは言え、実はその段階では「できたら面白いだろうな」という程度で、自曲へのバッシングに対する気分転換として作成したということでもあったようです。

実際、その企画書は父・雅人氏が北京旅行に出かけたついでに、中国電視台(国営放送局)のポストに投げ入れてきただけで、事前の根回しや交渉、プレゼンなどは一切行なっていないとのこと。

ところがしばらくした後、中国側から連絡がもたらされます。てっきり断りの知らせだろうと思っていたところ、なんとさだ企画に対する撮影許可だったのです。

中国側の担当者曰く「長江沿岸を撮影する企画は、6ヶ国から提出されていたが、あなたの企画が一番だった。会社の規模は一番小さいが、仕事をするのは会社ではなく人間だ。あなたを信用します」とのこと。

後にさだ氏は「日本を背負ってしまった」と語っています。

テレビ局の支援は却下、手持ちの資金は2億円

さだ企画は音楽畑の個人芸能事務所であり、映画に関してはズブの素人。当初は、某テレビ局の支援を仰ごうとしたそうですが、中国当局より却下されます。そのテレビ局が当時の中国に対して勇み足的な行いをして睨まれてしまったためとのこと。あくまで、さだ企画として行うことを求められました。

手持ちの資金は『雨やどり』や『関白宣言』などで稼いだ2億円。監督と主演はさだ氏自身が担当。脚本、演出、撮影は日本映画界のプロに依頼し、撮影終了後の編集は巨匠市川崑監督が行なってくれることで話しがつきました。

ちなみにスタッフ表には「製作総指揮」として、父・雅人氏の名前が掲載されています。さだ氏は後年「名前が載っているだけで何もしていない」と冗談めかしていますが、実は映画『長江』は、祖父・繁治氏はもちろんのこと、父・雅人氏にも捧げるための映画でもあったのです。

父・雅人氏の映画『長江』への想い、応えようとした息子・まさし

先にも述べました通り、莫大な借金を抱えることが分かりながらも、途中で断念せず、映画をカタチにしたのは、さだ氏が父・雅人氏の想いに応えようとしたからになりません。

父・雅人氏は第二次大戦中、陸軍兵として中国戦線に身を投じていました。そして実は、対戦相手の中国兵に追われる中で手榴弾の破片により左手親指と左耳の鼓膜に一生の大怪我を負った経験があるとのこと。その因縁の地こそが、まさに長江の沿岸部であり、さだ氏も最初の撮影でその地を開始場所として選んだと語っています。

思うように進まない撮影と、膨らみ続ける借入金

実際の撮影はかなり過酷なものだったとのこと。中国側から撮影許可こそ得ていたものの、その現場には常に公安関係者が張り付き半ば監視されていた状態。

そんな中で事前の調査なども行えないまま、現地にて情報収集を行なって、ロケハンして撮影という非効率的なやり方を余儀なくされたとのこと。それこそ監督・主演であるさだ氏とカマラマン氏は、一日3時間眠れればよい方だったとのこと。

もちろんさだ氏の会社には、こうした進行を管理してくれる人材やノウハウもなく、スケジュールは大幅に遅れていき、その度に借入金も増え続ける一方。

もうひとつ、当初はVTRでの撮影を予定していたそうですが、映像劣化を防ぐ目的から、35ミリフィルムに変更したことも予算を大きく圧迫したそうです。

「最初の一滴」に辿りつけないままに、四川省で撮影継続を断念

結果的には、予算面でも当時の時代背景の面でも、当初の目的であった長江の最初の一滴を撮影することは叶わず、それでも祖父の縁の地、四川省までの撮影をもって継続を断念。その時点で30億円の費用がかかっており、自前で用意していた2億円を差し引き、28億円の借金が課せられることとなったのです。

なお、これまた繰り返しになりますが、映画『長江』は興行的に失敗した訳ではありません。映像編集は、かの巨匠市川崑監督が手がけ、音楽と主題歌(『生生流転』)はさだ氏が担当。ドキュメンタリー設定の作品としては異例の120館上映というヒットとなりました。

もうひとつ余談ながら、名目上の製作総指揮であった父・雅人氏は、中国より国賓扱いでもてなされ、表彰までされた

とのこと。
さだ氏は雅人氏の死後に、「親父は最後まで、とうとう一度も侘びも礼も言わなかった」と、これまた冗談めかして語りましたが、それもこの親子ならではの照れ隠しなのでしょう。

借金返済のための「神出鬼没コンサート」の始まり

音楽に関する各種調査でお馴染みのオリコン調べによると、日本人アーティストで4千回以上のソロ公演達成という偉業を成し遂げてしているのは、さだまさし氏ただ一人。そしてこの前人未到の記録は、今なお、更新され続けています。察しのよい方なら既にお気づきでしょう。その原動力となったのは、借金返済のために他なりません。

29歳という若さで28億円(実際には金利を含めて35億円)もの借金。返済には1にも2にも、音楽という本業での稼ぎを充てるしかなかったとのこと。そして、さだまさし氏にはCD(当時はレコード)の売上もさることながら、コンサートへの集客力の高さという強みがありました。

そこで銘打ったのが「神出鬼没コンサート」。東京・大阪・名古屋といった大都市圏に限らず、地方都市や地域などもくまなく回るという作戦です。

実際、借金直後の1982年には、年間162回。それ以降も、年間100回以上のソロコンサートを行うようになりました。もちろん、その合間に、曲づくりやレコーディング、テレビ・ラジオ番組の出演、さらには小説家として執筆作業もこなしながらです。いやはや、脱帽するしかありませんね。

コンサートの集客のために行った、さだ氏ならではの戦略とは・・・

グレープ時代の『精霊流し』『無縁坂』をはじめとして、ソロ歌手転向後の『雨やどり』、『関白宣言』、『道化師のソネット』、『防人の詩』、『秋桜』、そして『風に立つライオン』などなど。錚々たる名曲を生で聞くことができるさだ氏のコンサートは、もちろん魅力的なものです。

しかし、そこに胡座をかくことなく、より魅力的に、よりリピーターや新規来場者を増やすために、さだ氏が行ったこと・・・それは「コンサートのバラエティ化」でした。

こんな話しがあります。とある芸人さんは若手に対して「さださんのコンサートに行って、話術を勉強して来い」と命じたとのこと。また、さだ氏自身も「コンサートに来たお客さんから、曲はレコードで聞くから、もっとトークを聞かせてくれって言われちゃいました」という、ある種の自虐ネタを。

これこそが、さだまさしのコンサートに来場者が絶えない理由と言っても過言ではないでしょう。楽曲演奏はもちろんのこと、合間のトークや、本格的な小噺(中学・高校時代には落研にも所属)、寸劇なども取り入れ、持てるものすべてをお客さんに提供して楽しんでもらう。

この姿勢があったからこそ、4千回以上ものコンサートを続けられ、ひいては借金完済を実現できたのでしょう。ソロ歌手という言葉だけでは括りきれない、マルチな才能とは、このことです。

ラジオ番組への想いとこだわりは、少年期の体験が基

そんなさだ氏の話術やトークの面白さを語る上で、もうひとつ外せないのがラジオ出演についてです。特に、借金直後の1981年から足掛け12年半の長寿番組となった「さだまさしのセイ!ヤング」(文化放送系)は、今なお語りつがれる伝説の番組となっています。

とりわけ有名なエピソードとしては、生放送時に放送局周辺に集まってきたファンを「通りがかりの人々」と称してスタジオ内に招き入れて放送していた点。こうした過剰とも言えるファンサービスを行った理由は、さだ氏の少年期の体験が基になっているとのこと。

さだ氏は中学1年の時、バイオリン修行のため故郷・長崎から単身上京し下宿生活をはじめます。慣れない東京生活やホームシックに襲われる度に、心の支えとなってくれたのがラジオの深夜放送だったとのこと。

「夜も遅い時間に、ラジオの向こうに一緒に起きていてくれるお兄さん・お姉さんがいることで、大きな勇気をもらえた」と語っています。その恩返しをするのは当然という男気もまた、人間さだまさしの大きな魅力なのですね。

借金返済の苦しい最中、敢えて挑んだ、平和のための“無料”コンサート

さだまさしの男気ということで言えば、1987年から20年間続けられた「夏・長崎から」も欠かすことのできない話題です。

これは毎年8月6日、広島原爆投下の日に、同じく被爆地である長崎にて、入場無料で行われていた「平和のためのコンサート」です。

1987年といえば、莫大な借金を背負っている真っ最中。少しでも収益を上げて返済に充てたいはずのこの時期に、敢えて費用持ち出しとなる無料コンサートを行ったのか・・・もちろんそれには理由があります。

当時、広島ではトップアーティスト達による平和コンサートが催されていました。長崎に帰省した際、地元の友人とその話題となり「同じ被爆地なのに、広島でやれて長崎がやってないのはなんでかな」というさだ氏の言葉に、友人はひと言「お前がやらないからだよ」と即答。ここから「夏・長崎から」への計画が動きだします。

なぜ有料ではなく無料でなくてはならなかったのか。それは、まがりなりにも第一線のアーティストになれたのだから、故郷長崎への恩返しに、商売を持ち込むことはありえないという男気に他なりません。この決断に対して、事務所社長である弟・繁理氏は頭を抱え込んでしまったとのこと。

しかしNHKによる全国放送の申し出や、さだ氏の心意気に賛同した音楽界の仲間たちの協力、市民ボランティアの協力などもあり、以後20年に渡って、長崎の夏の風物詩となっていったのです。まったくもって、あっぱれですね。

58歳、およそ30年をかけての借金完済、そして父・雅人氏の死去

2010年、いよいよ、その日がやってきます。さだまさし氏は映画『長江』で背負った合計35億円の借金を58歳にして、完済。実に30年近い年月をかけ、凡人ではとうてい不可能なことをやってのけたのです。

そして奇しくも、息子の借金完済を見届けてまもなく、父・雅人氏は天国へと旅立ちました。決して偶然ではない、何かのおぼしめしがあったのだと、つい思ってしまいたくなりますね。

先にも述べました通り、父・雅人氏は生前、さだ氏に対して一度も礼や労い、侘びや謝意といった言葉を発したことはなかったそうです。

一方、ファンの間では有名だったエピソードがひとつ。雅人氏は生前、自身が出向いたコンサート開場では、必ず開演前に入場口に立ち、来場者ひとりひとりに挨拶。また終演後も、同じように、観客を見送っていたとのこと。やがてファンの間では、お父さんに直接会って言葉を交わせることが、楽しみになっていったそうです。息子に直接言葉で言えない代わりに、自分に出来る務めとして行なっていたのでしょう。

借金完済、トップアーティストさだまさしのこれからは?

さだ氏は完済後のインタビューにて「借金を返せたのは、ひとえにファンの皆さんのおかげ。また助けてくれる仲間がいたから」と答えています。

そして歌手生活40年以上を経てなお、「そうした皆さんに恩返しをするためにも、まだまだ引退することはできない」とも。

エンターテイメントの世界において、さだまさしというビッグネームは、今後も当分の間、私たちを楽しませ、感動させ続けてくれることでしょう。

前編 さだまさしの借金返済(1) ~ 映画「長江」で負債28億円
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