千昌夫の借金地獄 ~総額1,034億円! 芸能界の不動産王から借金王へ

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千昌夫の借金地獄 ~総額1,034億円! 芸能界の不動産王から借金王へ
今なお名曲として歌い継がれる『星影のワルツ』や『北国の春』。先の東日本大震災の復興応援ソング『花は咲く』。故郷である陸前高田の「奇跡の一本松」をテーマとした『いっぽんの松』など。です。

千昌夫という人は、演歌歌手として、北島三郎、五木ひろし、森進一といった諸氏と並ぶビッグネームでありながら、話題となるのはやはり、かつて『歌う不動王』と称され、バブル崩壊によって莫大な借金を背負ったことに尽きると言えるでしょう。

その金額は実に1,034億円!。芸能人の借金にはいくつも例がありますが、千氏は文字通り「桁違い」の金額であり、別格と言っても過言ではありません。

本記事では、そんな千昌夫氏の生い立ちから、芸能界デビュー、バブル時代の絶頂期、前夫人との結婚と離婚、現婦人との再婚、そして借金苦難までを、詳しく掘り下げてご紹介していきたいと思います。

歌手、事業家を目指す大きな動機となった、少年期の極貧生活

千昌夫氏(本名:阿部健太郎)は1947年生まれ。家族はご両親に兄と弟。生家は岩手県陸前高田市竹駒町。東北本線の一ノ関駅から大船渡線に乗り換えて急行で約2時間、最寄駅からさらに歩いて2kmという場所で、言ってしまえば、相当なド田舎という地域柄になります。

阿部家は明治から戦前にかけては、なかなか広大な田畑を有する比較的裕福な農家だったものの、戦後のGHQ主導による農地改革によって、その大部分が没収され、僅かな面積が残される貧農へと転落してしまったとのこと。

そして、追い打ちをかけたのが、千氏が小学校4年生の1956年、お父上が出稼ぎ先の北海道にて、急性心臓麻痺を起こして死去。決して裕福ではなかった生活が、極貧にまで転落してしまったそうです。

後に歌手を志すこと、そして莫大な富を手にすることになる事業家への転身は、ひとえに、この極貧生活からの脱出が大きな動機だったとのこと。その強い信念は、千氏が高校2年生の時、驚くべき行動となってあらわれます。これについては後ほど詳しく。

高校生活で達観した「悟り」によって、歌手への道を決断

前述の通り、相当な貧乏生活を強いられていた千氏の少年時代。電気や水道代が払えず止まってしまうこともしばしばだったとか。

そうした状況ゆえ、千氏も中学卒業と同時に働こうと考えていたそうですが、先に中卒で左官業を行なっていた兄上と母上の懇願により、高校に進学することになります。ただし、高校は生家から片道3時間も離れた場所であり、通学できるはずもなく、下宿を余儀なくされます。

母上と兄上からの仕送りだけでは、もちろん生活費を賄えず、千氏も放課後のアルバイトに明け暮れる毎日。そんな中で、千氏は、人並み以上に努力してこのまま学業とアルバイトをコツコツ続けたとしても、ギリギリの生活から抜け出すことはできないという「悟り」に行き着きます。

当初、ボクシングはどうだと思いつき、農業で鍛えた腕力で挑んでみたものの、あっさり敗退。再びどうすべきかと思い悩んでいたところ、たまたま手にした週刊誌で目にしたのが、当時飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍していた作曲家・遠藤実氏の記事。千氏は、絶対、この人の弟子になって、歌手デビューすると決心します。

遠藤実氏への弟子入りのために、巧妙に練られた作戦とは・・・

決意も固く、遠藤氏への弟子入りを目指すことにした千氏。しかし、現実には、岩手の高校生にとっては、おいそれと出来ることではなく、そもそも貧乏で東京への交通費捻出もままならない状況。加えて、母上と兄上が猛反対することも目に見えていました。

そこで千氏は、用意周到に、策略を巡らせることになります。その方法とは・・・なんと、修学旅行で上京した際に、宿舎を「脱走」するというもの。その際にはアルバイトで蓄えた当時の1万5千円とお米一升五合を隠し持っていたとのこと。

その足で、東京の知人宅に世話になりながら、遠藤実氏の自宅に日参。最初は相手にされなかったものの、連日、朝から晩まで立ち続ける千氏に遠藤氏も根負けし、自宅のレッスン場に招き、遠藤氏が手がけたヒット曲『高校三年生』を歌わせてみたところ、決して上手くはなかったものの、何かしら感じるものがあり、弟子入りを許可されたとのこと。阿部健太郎少年は、歌手・千昌夫としての第一歩を踏み出すことになりました。

デビュー以来、3枚のシングルはまったくヒットせず、しかし・・・

晴れて、遠藤実氏の内弟子となった千氏ですが、およそ半年間は、遠藤氏のカバン持ち状態。歌のレッスンなどは大して行われることはなく、逆に社会人や芸能界での礼儀作法などを叩きこまれたとのこと。

そして「千年経っても覚えていてもらえるように」という遠藤氏の想いから、千昌夫の芸名を与えられ、1965年、待望のレコードデビューを果たします。

ですが、デビュー曲『君が好き』、2曲目の『若い恋人たち』、3曲目の『君ひとり』とまったくヒットすることはありませんでした。 この現実に、師匠の遠藤実氏は、諦めて田舎へ帰ることを示唆する意味で、住み込みの内弟子関係を解消。一方、千氏はまだ諦め切れないと、東京・世田谷の安アパートに居を移し、歌手活動を続行。そうした中、千氏本人も師匠・遠藤氏も予想しなかったカタチで朗報がもたらされるのです。

きっかけは有線放送! 「B面」だった『星影のワルツ』が大ヒット!

デビューしたものの3枚のシングルが全く売れず、師匠・遠藤実氏からも内弟子を解消された千氏。飲食店などでのアルバイトで食いつなぎながら、それでも歌手としての道を模索し続けていました。前述の通り、故郷から非常識なやり方で上京した手前、この程度で諦める訳にはいかなかったのです。

そんな千氏に、思わぬカタチで朗報がもたらされるのは、1967年の秋頃。前年の3月に3枚目のシングルとして発売されていた『君ひとり』のB面(現在で言うところのカップリング曲)である『星影のワルツ』が、当時の有線放送で評判となり、大ヒットとなるのです。

これを受け、レコード会社であるミノルフォン(現在の徳間ジャパン)は、『星影のワルツ』をA面として再発売。実に150万枚という当時のミノルフォンにとって最大のヒット曲となったのです。1968年にはNHK紅白歌合戦にも初出場。歌手・千昌夫は、第一線の存在として地位を確立したのです。

豪遊や浪費には目もくれず・・・「ケチ」はむしろ褒め言葉

タレントとして大ヒットに恵まれたというと、銀座などでの豪遊、高級車や高級衣服への浪費などをイメージしがちですが、当の千氏にとっては、辛かった少年時代、内弟子時代の経験から、お金の無駄遣いという行為が馬鹿げたことに思えて仕方なかったとのこと。

実際、とある先輩歌手に高級クラブ飲みに連れていかれた際も、こんなことで芸能人のステイタスを示すことは意味がないと内心思っていたとのこと。また、仲間内での食事などでも割り勘を徹底。いつしか「ケチの千昌夫」との呼び名が定着したそうですが、ご本人にとっては、褒め言葉だったそうです。

22歳の若さで、4,000万円をつぎ込んだ大きな「買い物」とは・・・

そんな千氏でしたが、1970年、22歳という若さで、一般人にはなかなか困難な、大きな「買い物」をしています。それは・・・仙台市郊外の推定5万坪の山林。そして察しのよい方ならお気づきでしょうが、この買い物が、後の「歌う不動産王」へのまさに第一歩であったのです。

経緯をもう少し詳しく、掘り下げていきましょう。繰り返し述べています通り、千氏は少年時代からの極貧からの脱出が歌手を目指すモチベーションでした。しかし、その一方で、芸能界の浮き沈みというものも冷静に判断しており、『星影のワルツ』のようなヒット曲が以降も出る保証はない。ゆえに、現在で言うところの、資産の有効活用を模索するようになります。

そんな折、所属のミノルフォンレコードと関係のあった仙台の不動産業者との親交を、地方の営業・巡業で訪れる度に深めていったとのこと。千氏のしっかりした考えと、同じ東北出身者という情もあり、この土地の売買、および金融機関へのローンの口利きをしてもらい、実現したとのこと。この出来事は、千氏を、事業家としての道を進む決心を固めさせたのだそうです。

1972年、千氏の人生における、2つの大きな出来事

この年のひとつめの大きな出来事は、アメリカ人歌手のジョーン・シェパード氏との結婚。ご存知の方も多いでしょが、この2人は、おしどり夫婦としてテレビ出演やCM出演なども多数。一時は、誰もが羨むような理想の夫婦に見えました。

しかし、これまたご存知の通り、結婚から16年後の1988年、奇しくもバブル崩壊前夜というタイミングで、千氏の女性問題が原因で離婚。はからずも、財産分与問題から千氏の資産がクローズアップされることになるという、なんとも皮肉な結果になるのです。

同じ1972年はもうひとつ、結婚とほぼ時を同じくして、千氏は自らの事業のために、「アベインターナショナルベンチャーズコーポレーション」という会社を立ち上げています。代表はもちろん千氏が務め、最盛期には200名もの社員を擁していたとのこと。不動産、ホテル、飲食業といった千氏の各種事業の総本山になります。

そしてこれまたご存知の通り、離婚後まもなくバブルは崩壊。偶然の一致か、神様のいたずらか、千昌夫氏の事業と最初の結婚生活の浮き沈みは、奇妙にリンクしているのが興味深いところです。

全盛期、千氏が所有していた「資産」はどれくらいだったのか・・・

先にも申しました通り、千氏がバブル崩壊によって背負った負債は1,034億円とされています。一般人にとっては天文学的数字であり、逆にどうやればそこまでの借金ができるのか、不思議に感じる方もいらっしゃることでしょう。ここでは、千氏が実業家としての絶頂期に、どれほどの資産を所有していたのか、見てみましょう。

まず、東京および周辺3県に、賃貸向け物件がおよそ600室。都心部には当時の評価額で数億円~十億円換算とされていたビルが20棟前後。海外では香港にホテルと商業ビル、イギリス・ロンドン、オーストラリア・シドニーにもホテルを所有。なお、余談ながら、「ハワイのホテルはほとんどが千昌夫のもの」という流言が飛び交ったそうですが、これは冗談に尾ひれがついて広まったようです。また、アメリカのインターコンチネンタルホテルも買収する計画があったそうですが、これも条件が合わず断念したとのこと。

このほか、住まいとしては、シェパード元夫人と長年暮らした東京・広尾の豪邸、シェパード元夫人離婚後に入手した横浜・山手の豪邸。そしてハワイ、サンフランシスコ、スペインなどにも別荘を所有していたとのこと。

もうひとつ、千氏は自らを広告塔とした大衆居酒屋「せんや」も経営。実はそれ以前、小洒落たレストランを開いたことがあったそうですが、上手くいかず、短期間で閉店したとのこと。自らのイメージに合致した居酒屋に鞍替えし成功させたという点は、なかなかのビジネスセンスと言えます(もっとも、バブル崩壊ですべてが破綻してしまうのですが・・・)。

名曲『北国の春』の大ヒットと、その裏にあった、したたかな計算

いったん話を実業家・阿部健太郎から、歌手・千昌夫氏に戻しましょう。前述の通り、千氏は自身の最初のヒット曲となった『星影のワルツ』で得た稼ぎを元に、実業家としての道を歩み始めていましたが、「本業」での稼ぎも、また重要な資金源であったとのこと。

しかし150万枚を売り上げた『星影のワルツ』ほどのヒットはなかなか生まれませんでした。図らずも、芸能界の浮き沈みを予測し、事業家の顔を持つことにした決断は、ある意味正しかったのです。

そんな中、1977年4月に発売されたある楽曲が、これまた奇遇にも『星影のワルツ』と同じく、当初はさほど注目されなかったものの、じわじわと評判を高め、最終的に300万枚という大ヒットとなるのです。言わずと知れた『北国の春』です。

このヒットに際し、千氏は、ある計略を実践します。それは、テレビの歌番組に出演する折、ヨレヨレのコートに古びた中折れ帽、丸縁の眼鏡、長靴、手ぬぐい、ガタがきたトランクといった「装飾」を施し、敢えてダサさを演出することで、ファンに親近感を持ってもらうという戦略。師匠の遠藤実氏などからは再三「みっともないからやめろ」と言われたそうですが、結果的には300万枚を売り上げたのですから、まさに作戦勝ちと言えるでしょう。

「ケチの千昌夫」の呼び名の反面、盟友 吉幾三氏への男気

千昌夫という人物を語る上で、もうひとつ欠かせない話題が「ケチ」という呼び名です。前述しました通り、千氏は少年期の極貧体験から成り上がったという人物ゆえに、自分が無駄金、無駄遣いと思ったことに対しては、お金を徹底して使わないという姿勢を貫いていたとのこと。特に、自身が酒を好まなかったため、自ら酒宴を催すことは皆無。食事も、庶民的な店を好んでいたとのこと。

そうした振る舞いが、(当時は)事業家として成功していたことへのやっかみも加わって、ケチ呼ばわりされることになったことと思われます。ただし、極貧から成り上がった人物には、往々にして見られる傾向です。

一方で、自分が目をかけていた仲間に対する支援などは惜しまなかったとのこと。とりわけ有名なのは、同じ東北出身の後輩歌手である、吉幾三氏の再ブレイクを支えたエピソードです。

吉幾三氏は1977年に『俺はぜったい!プレスリー』をヒットさせていましたが、その後は鳴かず飛ばずの日々。そうした中、アメリカで流行しつつあったラップミュージックにヒントを得て、画期的なコミカルソングを作り上げました。ご存知『俺ら東京さ行ぐだ』です。

しかし、当時としては斬新すぎるその内容ゆえに、レコード会社からの返事は芳しくなかったとのこと。そうした状況に対し、千氏は吉氏から原盤権を自ら買い取り、その上で千氏がプロデューサーとなり所属先の徳間ジャパンから発売。かかった費用は数百万とも1千万円とも言われていますが、ご存知の通り『俺ら東京さ行ぐだ』は大ヒットとなり、吉幾三氏はその後、本格的な演歌の名曲『雪国』で地位を確立します。

ちなみに、このことに対する恩義として、吉氏は自ら作詞作曲した楽曲『津軽平野』を千氏に提供しています。

バブル崩壊による巨額負債。そうなってしまったメカニズムとは・・・

ここからは、再び千氏を実業家としてとらえ、巨額負債を背負うことになった経緯を詳しく掘り下げていきましょう。

先にご紹介しました通り、千氏は全盛期、莫大な不動産を所有していました。これらをどう増やしていったかというと・・・ある種の自転車操業であったことが明かされています。

千氏は、『星影のワルツ』の印税を基に、22歳の若さで仙台郊外に5千坪の土地を取得しましたが、これが金融機関に対する担保としての役割を大いに果たしたのだとか。バブル崩壊以前の常識であった「土地神話」がなせる技だったと言ってよいでしょう。

つまりは、土地や不動産を取得する度に、その物件を担保として、金融機関から資金を引き出し、そのお金で新たな不動産を取得するという繰り返しによって、そこまで巨大な資産を築き上げたのだそうです。

そしてバブル崩壊にともない土地神話が崩壊。担保価値は下落し、借金だけが残ったというのが、おおよその顛末です。

不動産事業を手広く行えた理由は、人気歌手として培った人脈

結果的には莫大な債務を背負うことになりますが、それ以前のバブル期までは、千氏は「歌う不動産王」の異名を取るほどの成功を収めていました。とりわけ80年代後半は、歌手活動を抑え、不動産事業に重点を移していたほど。

そこでまた、ひとつ疑問が湧いてきます。そもそも、歌手である千氏が、なぜここまで不動産取引を成功させることができたのか・・・。これまた、仙台の土地取得にまで遡りますが、そこには、人気歌手・千昌夫の顔を存分に活かして広げた人脈がものを言ったとのこと。

気さくで親しみやすい人柄をフル活用し、不動産業界の大物専門家の懐に飛び込んでいくというやり方が、功を奏したとされています。同様のやり方は、融資先の金融機関の責任者にも有効であったとのこと。仙台の土地取得で成功して以来、このやり方をフル活用したのだとか。

実際、とある物件買取において、千氏のアベインターナショナルと競合した某不動産業者の担当者氏は「所詮、素人とタカをくくっていたら、この業界のプロがバックについていて、してやられてしまった」との証言を残しています。

ちなみにそうした人脈として、当時の大京社長・横山修二氏、当時の丸源ビル社長・川本源司郎氏、そして兜町の風雲児と称され、国際興業の乗っ取りなど仕手筋の大物とされていたコーリンの小谷光浩社長といった名前が挙げられています。

そしてバブル崩壊・・・巨額負債の処理はいかに?

1991年、言わずと知れたバブル崩壊がやってきます。そう聞くと、すぐに経営破綻したように思いがちですが、実はアベインターナショナルは、2000年4月までは存続していました。

その間、借金問題の解決のために、保有不動産すべてを売却リストとして金融機関に提出したり、歌手活動に再び重きをおき、その収入での返済にも尽力したようですが、結局は焼け石に水。2000年にアベインターナショナルは経営破綻することとなりました。

残された借金は個人ではどうあがいても償えるものではなく、東京地裁に特別清算を申請します。この時に申し立てられた金額が1,034億円にほかなりません。なお、一部のネットやゴシップ誌などでは2,353億円という数字も見られますが、その根拠までは言及されていませんので、信ぴょう性には疑問符がつきます。

そして申請の結果、2002年に、「6年間で約1億5,000万円を返済すればよい」ということになり、一応の決着を見ました。期限の6年間は既に経過していますので、本業の歌手活動の収入などで完済したものと思われます。

不動産王から借金王、波乱の人生で得たものとは

以上の通り、極貧の少年時代の困難をバネに立身出世を果たしたという点では、千昌夫という人物は敬服に値するものの、その後の悲劇もまた、一般人では経験できない程の壮絶さです。

男性芸能人で大きな借金を抱えたという例は多く、例えば、さだまさし氏や元米米CLUBの石井竜也氏は映画制作で負債。故・藤田まこと氏は飲食店経営などの失敗。そして芸能人ではありませんが(夫人は元芸能人)は、父・君島一郎氏の死去に伴う兄弟間の争いでブランドイメージ低下を招き君島ブティック全店閉鎖に追い込まれた君島明氏など。

しかし見方を変えると、千氏は特別清算によって最終的に借金は1億5,000万円まで圧縮できたため、実際の苦労は、これらの方々より少なくて済んだとも言えるのです。

加えて、バブル崩壊以降は、歌手活動を地道に再開しながら、シェパード前夫人との離婚原因となったアマンダ夫人と再婚し、3人のお子さんをもうけました。なお次女のダニエラさんは2009年にモデルデビューも果たしています。

また2011年の東日本大震災に際しては、故郷の陸前高田が大被害を受けたことにより、チャリティ活動にも尽力。冒頭で述べた東日本大震災の復興応援『花は咲く』への参加や、ジャッキー・チェンが香港で呼びかけたチャリティイベントにも駆けつけ、結果2億9,000万円の義援金を集めることにも貢献しています。

極貧から大富豪、大借金という波乱の人生を経て、現在は日々穏やかな暮らしに落ち着いたものと思われる千昌夫氏。人間にとって何が幸せかは難しいところですが、愛する家族との生活が残させたという点では、幸福と言ってよいのではないでしょうか。

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